案件停滞の真相は、新興国に吹き荒れていた「PPP神話」

 なぜITD社が開発主体になったのかについては見えてきた。ただ、そもそもの疑問として、なぜこのような大型事業が、一企業の手に委ねられたのだろうか。そもそも、当時のミャンマー、タイ政府は、国として案件に関与することに対してどのように考えていたのだろうか。それに対する答えのカギは、当時新興国に吹き荒れていた「PPP神話」にあるという。
 そもそもPPPとは何だろうか。この略称の正式名称は、Public Private Partnership で、特定非営利活動法人 日本PFI・PPP協会の記載によると、「公民が連携して公共サービスの提供を行うスキームをPPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ:公民連携)と呼ぶ。PFIは、PPPの代表的な手法の一つ」とある。その上で、「PFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)とは、公共施工等の設計、建設、維持管理及び運営に、民間の資金とノウハウを活用し、公共サービスの提供を民間主導で行うことで、効率的かつ効果的な公共サービスの提供を図るという考え方」とある。要は、民間資本を用いて、インフラ整備を進める動きだ。
 松島氏は言う。「コンセッション、つまり開発権を民間企業に与えることによって、本来国がやるべきインフラ事業を民間企業が市場原理、つまりビジネスとしてやるだろうという思想が、この15年くらいアジアで蔓延しているんです。実際にPPPの発想が出てきた背景は、低成長に直面した先進国の政府部門における公的債務拡大によって、『官から民へ』という文脈でインフラ整備の担当の官と民の仕分けを行ったものでした。しかし新興アジア諸国では、本来の『政府の役割』である公共事業という点を忘れている場合が多い。政府予算が限られている中で、道路整備や工業団地開発等インフラ整備ニーズが高まっており、そこでプライベートの企業に丸投げして予算もかけずにできてしまうのであれば、こんなありがたいことはないと、本来使うべき公共事業を節約する方便としてPPPも誤用しています」。
 この蔓延するPPP病に、政府予算がカツカツのミャンマー政府もコロッといってしまった。
 「当時のミャンマーは軍事政権で、PPPの考え方自体が新鮮で、今以上にナイーブでした。コンセッションで民間に権限を与えれば、ほっといても各国のディベロッパーが開発してくれるから、国がやる必要はないんだと。ミャンマー側もそうですが、タイ側も同じような考え方で、ITD社に丸投げする構図ができてしまいました」(松島氏)。
 こうした安易な民間丸投げ思想によって、タイ国内で手を挙げる事業会社を募ったところ、リスクを熟知した実績のある開発会社は手を挙げず、唯一手を挙げたITD社のみが主導してそのまま突き進んでしまったのが、ダウェー開発計画が頓挫した大きな要因なのだ。

ようやく日の目を見た日本のプロジェクト参画

 ITD社の資金難等により、ダウェープロジェクトが困難を見る中で、タイ・ミャンマー両国は日本への期待感を高めていく。そうした中で、2012年7月『「東京戦略 2012」の実現のための日・メコン行動計画』の中で日本政府はダウェー・プロジェクトへの協力可能性調査に乗り出すことに合意した。併せて、タイ・ミャンマー間では、2012年11月、ダウェー開発に関する2国間閣僚会議が開催され6部会から成る共同委員会を設立した。その後2012年12月に第二回共同委員会をネピドーにて開催、2013年3月に第三回の共同委員会がパタヤで開催された。第三回共同委員会では日本がオブザーバーとして招待され出席した。
 タイ・ミャンマー政府によるナショナル・プロジェクト化に向けての準備と並行して、日本政府へのODA申請のプロセスも進められた。今までは、タイの一民間企業のITD社主導の開発であったため、日本政府も支援することが出来なかったが、ようやく両政府が開発主体となることが明確になったことによって、ODA案件として前向きに進む枠組みが整ったのだった。その枠組みの発表の場として、2013年12月14日に東京で開催が予定されていた、アセアンサミット(日・ASEAN特別首脳会議)が選ばれた。
 新たな政府主体案件として装いを新たにし、いよいよ発表の舞台が整い、これから開発の具体化が始まるというところで、予想外の出来事が勃発した。2013年11月25日に当時のインラック政権に対する反政府デモが始まり、12月になると収集がつかなくなった。その結果、タイのインラック首相はサミットへの出席を断念し、状況が沈静化するまで発表は延期されることになった。結局、このクーデターに伴う混乱は、翌2014年5月20日に、タイ王国陸軍が全土に戒厳を発令し、陸軍総司令官のプラユット・チャンオチャが5月25日に第29代首相に就任するまで続くことになる。これにより、本来であれば日本を含めた3カ国で2013年末から華々しく再開するはずだったダウェーの開発計画は、また延期の憂き目にあうことになった。
 こうした紆余曲折を経たダウェー経済特別区への日本の参画は、それから1年半たちタイの政情が沈静化することで、ようやく日の目を見ることになる。2015年7月4日、東京にて日本、ミャンマー、タイの3ヵ国により、「ダウェー経済特別区プロジェクトの開発のための協力に関する日本国政府,ミャンマー連邦共和国政府及びタイ王国政府の間の意図表明覚書」の調印が行われた。当初、2013年末から送れること1年半にして、ようやく開発のキックオフが行われたのだ。
 ダウェーは、先行したティラワと比較して、開発規模も大きく、かつ関係者も多いため、より複雑系の案件だ。うまく進むときはいいが、何か問題が起こりはじめると、お互いの責任のなすりつけ合いにさえ発展しかねない。ただ、そこにおける地政学的かつ経済的な戦略上の意義は、ティラワよりも大きい。このプロジェクトをいかに無事に成功裏に遂行できるか、そこでどれだけ日本が主導的な役割を果たすことが出来るかは、今後のこの地域における日本の立ち位置にも影響を与えるだろう。そうした重要なプロジェクトにおける日本の真の実行力が試されている。