仙台を追われた父

 仙台に置いてきた幼い幸一のことに思いを残しながらも、信は静岡県の興津で療養生活を送っていた。

 海岸を散歩して体力をつけようとするなど、翌昭和3年(1928年)の3月いっぱいまでいろいろと頑張ってみたものの少しも良くならない。そのうち世話をしにきてくれていた遠縁の人が近江八幡に帰るというので、信は富佐子を連れてこっそり実家へと戻った。

 ところが、そのことが本家に知られ、

「了解もなく黙って里に帰るようなものは、もう仙台に帰ってくるな!」

 と叱責された。

 追いつめられた信の精神状態はいかばかりだったろう。これでは健康が回復するはずもなかった。

 長じて後の塚本幸一は無類の親孝行として知られた。ことに母信に対する愛情は深かったという。それは、愛情という滋養を最も必要としている時期に、しばらく別れて暮らす生活を余儀なくされたことと、信が味わった仙台時代の苦労を彼女から繰り返し聞かされていたことが背景にあったに違いない。

 そんな折も折、粂次郎が再び店の金に手を出して相場につぎこみ、大きな損害を出してしまう。本当に懲りない男である。仕事の面での働きは抜群だったが、彼はストレスを発散する方法をお茶屋遊びと相場以外に見つけることができなかったのだ。

 自分の父親が残してくれた財産もあるのだから、それしきのことで文句を言われる筋あいはないと開き直ったが、本家にすれば、そんなものは粂次郎を幼いころから預かってきた養育費でとっくになくなってしまっているという考えだ。聞く耳を持たない。

 仲右衛門のあとを継いでいた息子から、

「仙台を出ていけ!」

 と言われるに及んで、粂次郎の中の何ものかがぷつりと音を立てて切れた。

(こっちから出ていってやる!)

 もう粂次郎に迷いはない。さっさと荷物をまとめて店を出ると、幸一とともにかつて住んでいた花壇川前町の家へと向かった。

 中はがらんとしている。彼は座敷の襖の前に仁王立ちになると、用意してきた筆にたっぷりと墨を含ませ、一気にこう大書した。

 おばこ草 むしり取っても 根は残る

 “おばこ草”とは雑草のオオバコのことであろう。葉をむしられても、再びはえてくるという叛骨心を示したのだ。

 使い込みをして塚本商店に迷惑をかけたことを考えると逆恨みのような気もするが、負けん気の強い当の本人は“今に見ていろ”という気持ちだった。遠く離れた近江八幡にいる信は、なおさらそう思ってくれるであろうという確信もあった。

 満足した彼は、戸をすべて釘づけにすると、仙台の家を後にした。

 この時、懐中にあったのはわずか50円。相場で大勝ちしていた時には100円札を気前よく配っていたのがうそのようである。

 ひとまず信の実家である近江八幡の岡田伝左衛門邸に身を寄せることにした。

 幸一の年齢では、職を失うことの深刻さなどわかるはずもない。むしろ母親と再会できる喜びの方がはるかに大きかった。

 粂次郎らしいのは、途中の熱海で手持ちの50円すべてをはたいて散財していることだ。こうなると、呆れるのを通り越して爽快である。実際、幸一はこの時のことを振り返って〈父の面目躍如たる一面である〉(『塚本幸一 わが青春譜』)と述懐している。

 結局、幸一は仙台に7年しかいなかったわけだが、その仙台時代に出会ったある不思議なエピソードを、信は彼に繰り返し話して聞かせた。

「お前がまだ5、6歳だった頃、道端にいた易者に呼びとめられてね、『この子はあなたの息子さんですか?』って尋ねられ、『はい、そうですが』って答えると、その易者は『この子は将来、きっとえらくなります』と言ってくれたんだよ」

 そして最後に決まって、こう付け加えるのだった。

「だから幸一、本家を見返しておくれ!」

 幼いころは何のことやらわからなかったが、長ずるにつれ、幸一も少しずつ両親の悔しさを共有できるようになっていった。そして彼はこう述べている。

〈子供心に「僕も何か、やったらできるんじゃないか」という気持ちになった。母の私に対する期待は強かった。今にして思えば、これは一種の暗示だったのだろう〉(塚本幸一『乱にいて 美を忘れず』)

 もちろん彼の脳裏には、粂次郎が仙台の家の襖に書いた墨痕淋漓(ぼっこんりんり)とした雄揮(ゆうこん)な字が焼きついている。後年、酒の勢いもあったようだが、祇園の料亭「富乃井」で、幸一はこれと同じ言葉を襖に書いている。両親の抱いた悔しい思いと大きな期待を、幸一は幼いころから反芻し続けていくのである。