社会構造的にいうと、比較的小さな規模である家族を中心に、親族や地域社会のネットワークがありました。それが日本人の〝絆〟のモデルになったのです。そうした人間関係の絆を尊ぶ社会のあり方が、葬儀を中心にして、数百年ものあいだ続いてきたのです。

 それが変化し始めたのは1970年代、女性の社会進出が始まった頃です。この時期から、親族や地域社会のネットワークが崩れ始めた。つまり、それまでのネットワークは女性の力によるところが大きかった。その女性が社会進出で外に出るようになり、同じ地域での付き合いが減ってきた。それとともに、葬儀のあり方も変化してきたのです。

 日本の葬儀は、日本人の〝絆〟のあり方と深くかかわっています。70年代までの葬儀といえば、故・伊丹十三監督の『お葬式』(84年公開)という映画に代表されるように、よくも悪くも、親族の濃密な〝絆の重さ〟が存在していました。ところが最近の映画、『おくりびと』になると、その絆が失われ、理想化された小さな家族の絆だけが描かれるようになる。主人公の父親は孤独死するのですが、それが現代の葬儀を象徴するものになっています。

自分が親しんだ
共同体のなかで
生き続ける

 では絆が失われつつある今、私たちはどのように死に向かい、生きればよいのでしょう。

 私の母は去年亡くなったのですが、常々「草葉の陰から見守っているよ」と言っていました。草葉の陰なんて、じめじめしているし、つまらないことを言うなと思っていたのです。『千の風になって』という曲のように、魂は大空を吹き渡っていたほうがいい、と。

 でも、お墓があって、そこに亡くなった人がいると思うからこそ、みんなが集まって、絆を確認し合えることができる。考えてみれば、人間の生活には、草葉の陰のように、地を這うような側面があります。楽しいこともあれば、いやな思い出もある。地面に近いところに、実生活のいろいろな思い出がこもっている。そう考えると、「草葉の陰にいる」という感覚もあっていいのではないかと、今は考えています。

 元来、死というものは、自分が執着を持つすべてを失うことです。人間というものは日々、幼い頃に母親のおっぱいを失っていくように、いろいろなものを失ってゆく。つまり毎日のように小さな死を経験しながら、一生かかって死の準備をしているともいえるのです。

 その一方で、〝大河の一滴〟という言葉があるように、私たちは、過去や未来とは無縁ではない、過去を引き継ぎながら未来に続いていく、その大きな流れのなかにあるということもいえます。死んだらそれっきりということはない、大自然に融け込みながらも、自分が親しんできた人間関係や共同体という絆のなかで、死んでも生き続けることができる。

 自分の死は、自分のものだけじゃないと考えるときに、死ぬまでの生き方が充実してくるのではないでしょうか。現代人にとって、今再び他人との絆を見つめ直し、死を引きつけて考えることは、愉しく充実した生を送るためにも、大切なことだと思います。

※「週刊ダイヤモンド」9月4日号も併せてご参照ください。
※この特集の情報は2010年8月30日現在のものです。