橘玲の日々刻々 2016年6月17日

デモクラシーを守るためにこそ、
「民主主義」をやめることから始めよう
[橘玲の日々刻々]

 近刊の『「リベラル」がうさんくさいのには理由がある』(集英社)で、「『民主主義』をやめることから始めよう」と書いた。ほぼ同時期に発売された小林よしのり氏の『民主主義という病い』(幻冬舎)でも、民主主義をやめることが提言されている。

 小林氏は、きわめて民主的なワイマール憲法からヒトラーが誕生したことや、戦前の日本で大衆やマスメディアの熱狂から軍部が台頭し、無残な戦争に突き進んだ歴史から、「大衆民主主義」は「愚民民主主義」であり、国民を幸福にしない制度だと断ずる。それに代わる提案は、「選挙権も被選挙権も試験を受けて合格した者だけが獲得し、民主制に参加できるようにすべき」という「エリートの『寡頭制』」で、これによって「『公』の体現者たる天皇のもとで、君民一体の『公共性』を基にした政治を目指せばよい」という(小林氏はこれを「公民主義」と呼ぶ)。

 政体を根本的に書き換えようとする小林氏の大胆な提言に比べれば、私の主張はきわめてささやかなものだ。民主的な選挙によって「主権者」である国民の代表を選ぶ政治の枠組みを前提として、「デモクラシー(民主政)」を守るためにこそ「民主主義」という“誤訳”をやめよう、といっているだけだからだ。

 公選法が改正され、7月10日の参院選で18歳から投票できるようになる。それに合わせてメディアや有識者が若者向けの「政治教育」の重要性を説いているが、じつは日本における「政治」の議論には誤訳がもたらす根本的な欠陥がある。

 民主主義はデモクラシーの訳語だが、democracyは神政(テオクラシーtheocracy)や貴族政(アリストクラシーaristocracy)と同じく政治制度のことだから、「民主政治」「民主政」「民主制」などとすべきで、「民主主義democratism」とは別の言葉だ。リベラルデモクラシーは「自由民主主義」と訳されるが、これもイズム(主義)ではなく、「自由な市民による民主的な選挙によって国家(権力)を統制する政治の仕組み」のことだ。

 この誤訳がなぜ問題かというと、「制度」と「主義」を混同することで、「(リベラルデモクラシーという)制度の枠内で異なる政治思想(主義)が対立する」という政治論争の基本がわからなくなってしまうからだ(念のためにいっておくと、小林氏はこの問題を正しく認識している)。

 この誤訳についてはこれまで何度か書いてきたが、投票権を得て政治について考えようという若いひとたちには大事なことなので、ここであらためて説明しておきたい。

「正義」とはなんなのか?

 政治思想というのは、どうすれば「正義」にかなった社会を実現できるかを考えることだ。正義はjusticeの訳で、「Justにすること」すなわちものごとを釣り合いのとれた状態に維持することをいう。――ついでにいっておくと、宗教的な悪であるevilの反対語はgood(善)で、悪を滅ぼすのは「正義の味方」ではなく「善の味方」でなくてはならない。また道徳的な善にはright(正さ)という言葉がある。それに対して法律用語としてのjusticeは宗教や道徳から距離を置き、適切な(釣り合いのとれた)法の制定と裁判の仕方を論じることだ。

 それでも私たちは、直感的に、正義と不正義を見分けることができる。そして不正義に対し、はげしい怒りの感情を持つ。このことは、正義がやはり感情によって支えられていることを示している。それをここでは「正義感覚」と呼ぼう。

 この正義感覚は、国籍や人種、民族や宗教、性別などを問わずすべてのひとに共有されている。なぜなら喜びや悲しみなど、すべての感情は長い進化の過程のなかで脳に埋め込まれた基本プログラム(OS)だからだ――これが現代の進化論の基本的な考え方だ。

 「正義感覚」にはどのようなものがあるのだろうか 。フランス革命はこれを、「自由」「平等」「友愛」の三色旗に象徴させた。

 自由とは「なにものにも束縛されないこと」だが、ジョン・ロックに始まる政治思想では私的所有権こそが自由の基盤だとされた。領主が農地を勝手に取り上げてしまうようでは、人民は奴隷として生きていくほかはない。だからこそ、私的所有権を否定したマルクス主義は「自由の敵」なのだ。

 平等というのは、すべてのひとが、ひとであるというだけで人権を持っているという思想だ。人権は究極の権利なので、人種や性別、国籍や宗教のちがいによって差をつけることは許されない。

 友愛とは、理想のためにちからを合わせてたたかう仲間(共同体)のことだ。集団である以上、そこにはリーダーを頂点とする階層(ピラミッド型)組織がつくられるだろう。フランス革命では、こうした組織は伝統や宗教、暴力や恐怖ではなく、友情(友愛)によって築かれるべきだとされた。――もっともこれはあくまでも理想で、近代社会では組織の拘束は自由な契約によってのみ正当化される。

 私たちは「自由」「平等」「共同体」という正義感覚を共有しているが、それと同じ「正義」をじつはチンパンジーも持っている。このことは次のような実験で、動物行動学者によって繰り返し確認されている。

 チンパンジーの社会は、アルファオス(かつては“ボスザル”と呼ばれたが、最近は“第一順位のオス”の意味でこの言葉が使われる)を頂点とした厳しい階級社会で、下っ端(下位のサル)はいつも周囲に気をつかい、グルーミング(毛づくろい)などをして上位のサルの歓心を得ようと必死だ。

 そんなチンパンジーの群れで、順位の低いサルを選んでエサを投げ与えたとしよう。そこにアルファオスが通りかかったら、いったいなにが起きるだろうか。

 アルファオスは地位が高く身体も大きいのだから、下っ端のエサを横取りしそうだ。だが意外なことに、アルファオスは下位のサルに向かって掌を上に差し出す。これは「物乞いのポーズ」で、“ボス”は自分よりはるかに格下のサルに分け前をねだるのだ。

 このことは、チンパンジーの世界にも先取権があることを示している。序列にかかわらずエサは先に見つけたサルの“所有物”で、ボスであってもその“権利”を侵害することは許されない。すなわち、チンパンジーの社会には私的所有権がある 。

 二つ目の実験では、真ん中をガラス窓で仕切った部屋に2頭のチンパンジーを入れ、それぞれにエサを与える。

 このとき両者にキュウリを与えると、どちらも喜んで食べる。ところがそのうちの1頭のエサをリンゴに変えると、これまでおいしそうにキュウリを食べていたもう1頭は、いきなり手にしていたキュウリを投げつけて怒り出す。

 自分のエサを取り上げられたわけではないのだから、本来ならここで怒り出すのはヘンだ(イヌやネコなら気にもしないだろう)。ところがチンパンジーは、ガラスの向こうの相手が自分よりも優遇されていることが許せない。

 これはチンパンジーの社会に平等の原理があることを示している。自分と相手はたまたまそこに居合わせただけだから、原理的に対等だ。自分だけが一方的に不当に扱われるのは平等の原則に反するので、チンパンジーはこの“差別”に抗議してキュウリを壁に投げつけて怒るのだ。

 三つめの実験では、異なる群れから選んだ2頭のチンパンジーを四角いテーブルの両端に座らせ、どちらも手が届く真ん中にリンゴを置く。初対面の2頭はリンゴを奪い合い、先に手にした方が食べるが、同じことを何度も繰り返すうちにどちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。

 このことは、身体の大きさなどさまざまな要因でチンパンジーのあいだにごく自然に序列(階層)が生まれることを示している。いちど序列が決まると、“目下の者”は“目上の者”に従わなければならない。ヒトの社会と同じく、組織(共同体)の掟を乱す行動は許されないのだ 。

 チンパンジーの世界にも「自由」「平等」「共同体」の正義があり、相手がこの“原理”を蹂躙すると、チンパンジーは怒りに我を忘れて相手に殴りかかったり、群れの仲間に不正を訴えて正義を回復しようとする。こうした行動は一見、奇妙に思えるかもしれないが、正義感覚がなわばり意識や子どもに対する愛情など、他の感情と同じように進化のなかでつくられてきたことに気づけば、ヒトの近縁であるチンパンジーに「正義」がない方がおかしいとわかるだろう。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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