国民投票が危険だというのは
包丁が危険だというのと同じこと

 だが国民投票が危険だというのは、包丁が危険だというのと同じようなものだ。包丁はそれ単独では人を傷つけないし、そもそも調理には欠かせない道具だ。包丁が危険であるか否かは、ひとえに使い手の力量にかかっている。そして国民投票の使い手とは政治家や有権者だ。

 割合のほどは不明だが、イギリスではEUが何だか知らないまま離脱に投票した者や、無思慮に離脱へ投票したことを後悔する者も多いようだ。再度の国民投票を求める署名も370万筆を超したという。だが「やり直し」はないだろう。そもそも多数決という道具は使い手に「強い個人」であること、自律して熟慮できることを求めるもので、また最終的な決定を与えるための手段なのだ。

 だがイギリスはこのような国民投票をせねばならなかったわけではない。キャメロン首相は、自らはEUへの残留を望むにもかかわらず、2012年には総選挙で国民投票の実施を公約に掲げ、自身の率いる保守党を勝利に導いたのであった。

 そして残留が勝つと予想したから、わざわざ特別の法律を作り、離脱を問う国民投票を実施した。プレビシットを狙ったが失敗したようでもある。国民投票で離脱派を斬りつけるつもりが、激しい返り討ちに遭ってしまった

投票結果で試されるのは
「有権者の質」

 アメリカで大統領を目指すトランプは、イギリスのEU離脱を歓迎すると表明した。思慮を欠くトランプが大統領になったらアメリカは終わりだという危惧の声がある。だがイギリスはそれどころではない。EUへの残留を望むスコットランドは、イギリス連合王国からの独立を再び目指すだろう。300年以上続くイギリス連合王国は本当に終焉を迎えそうな気配である。キャメロンが仕掛けた国民投票の傷は深い。

 国民投票という制度が問題なのか、あるいはそれを使う人間に問題があるのか。もし後者であるなら、制度ばかりを危険視するのは、制度に気の毒というものだ。かつてルソーは「人間は良い。社会がそれを悪くしているのだ」と述べたが、それをひっくり返した言葉遊びに「社会は良い。人間がそれを悪くしているのだ」というものがある(注1)。

 人間が危険でないわけではないし、また日本も国民投票と無縁というわけではない。参院選の結果次第では、憲法改正をめぐる国民投票が起こるだろう。そこではイギリスの国民投票と同様、日本の有権者のあり方が試されることになる

国民投票に限らず、あらゆる投票は、徹頭徹尾、手続きである。それは結果のよさを保証するものではなく、あくまで投票用紙というインプットを、投票結果というアウトプットに結びつける機械的な装置に過ぎない。

 だから有権者の質が低ければ、結果の質が高くなることは期待しがたい。国会議員の選挙でいうならば、真に試されているのは、立候補する側の政治家ではなく、投票する側の有権者なのだ。政治家が「民意の審判を仰ぐ」のではない。投票結果から、有権者は審判を受けるのである。

 社会の意思決定をどのように決めてゆくのか。人間が社会のなかで生きる以上、誰もこの問いから逃れることはできない。決め方は社会の行く先を決めるだろう。だがいかなる決め方であれ、使うのはあくまで人間であり、賢慮を必要としない決め方などない。

注1 エリック・マルティほかロラン・バルトの遺産(訳)石川美子・中地義和、2008年、みすず書房