最先端の脳科学で、心をメンテナンスする

私の名前は小川夏帆。脳科学の研究者を目指す29歳だ。
日本の大学院で博士課程を修了した私は、アメリカのイェール大学での研究ポストを手に入れた。いわゆるポスドク研究員だ。

自慢ではないが、日本にいたころの私は、前途有望そのものだった。数多のライバルを抜き去り、海外のトップジャーナルにいくつもの論文を発表した。人が5時間で満足するところを、10時間を費やして徹底的に研究に打ち込んできた。
それに、かつてタカラジェンヌを目指したという母のおかげで、幸い外見も悪くはない。男性から声をかけられることも少なくなかった。
才能と努力、その両方を兼ね備えた(と思っていた)私は、意気揚々とイェールに渡り、一流研究者への助走期間を駆け抜けるつもりだった。

ハーバード、プリンストン、コロンビア、ペンシルベニア、コーネル、ダートマス、ブラウン、そしてイェールの8大学は、アメリカ屈指の名門私立校としてアイヴィーリーグと呼ばれている。これにマサチューセッツ工科大学とスタンフォード大学を加えて、アメリカ難関10大学などといわれることもある。

選ばれしエリート中のエリートのみが集う最高学府の中でも、イェール大学は多くの歴代大統領を輩出したことで知られる名門だ。

「最先端の脳科学を使って、人々の心の悩みを解決したい」——そう願ってきた私が選んだのは、イェール大学医学部にある精神神経学科だった。イェールの精神神経学科は「USニューズ」という雑誌で毎年のように世界ランク5位以内に入る高評価を受けている[*]。ここには世界最先端のメンタルケアがあるのだ。

* “Best Global Universities for Psychiatry/Psychology.” U.S. News (2016): http://www.usnews.com/education/best-global-universities/psychiatry-psychology.

イェールはアメリカの北東部、コネチカット州のニューヘイブンにある。この小さな街を訪れた私は、これからはじまる研究生活に胸をときめかせていた。1701年に創立された歴史あるこの大学は、街の中心部に位置するレンガ造りの建物群から構成されている。

精神神経学科がある建物には、世界的に有名な研究者たちのラボが入っていた。遺伝子研究室、臨床試験研究室、先端脳科学研究室、疫学研究室、画像研究室……私のワクワクはとまらなかった。

そして、自分があのラルフ・グローブ教授の研究室に配属されることになったと聞いたとき、その興奮は頂点に達した。少なくとも最先端の脳科学を志す研究者で、グローブの名を知らない者はいないはずだ。彼が残してきた業績たるや数え切れない。

しかし、その期待も1時間後には失望に変わっていた。それは、あのヨーダのような風貌が抱かせたイメージギャップのせいだけではない。

「グローブ教授は昔の彼とは違うんだ」
「よりによってあのラボとは……お気の毒さま」

ほとんどの同僚が口を揃えてそう言った。何があったのかは知らないが、あるときから彼の学者としての名声は失墜したらしい。日当たりの悪い地下の研究室に移されてからは、もはや誰からも省みられなくなったという。

そして、私にとって何よりもショックだったのが、グローブ教授が以前のような最先端脳科学の研究をやめてしまったというニュースだった。