電撃的社長交代劇

 昭和27年(1952年)3月、前々から勧誘し続けてきた義弟の木本寛治が、ついに入社してくれることとなり、期待を込めて工場長に抜擢した。

 製造部門は生産量を飛躍的に拡大し、順調に企業規模を拡大していたが、問題は営業部門である。従業員が増え、生産量が増えても販売力が伴っていないと、経費と在庫の山が積み上がるだけになる。和江商事が次に解決しないといけない問題はここにあった。

 営業を担当するのは木原社長である。誠実ではあるがリーダーシップにやや欠けるところのあった木原社長にとって、川口をはじめとする個性の強い営業マンたちを束ねるのは荷の重い仕事だった。

 しだいに不満の声があがりはじめる。

 そのうち取引先や銀行からも、

「和江商事は塚本が社長をしているから取引をしているのだ。勝手に首をすげ替えられては困る」

 という苦情が出始めた。

 (このままだとせっかく集めた人材がやめていってしまう。製造部門までそろえられた今が、和江商事の飛躍のために一番大事な時や……)

 幸一は敢えて憎まれ役を買って出ることを決めた。

 役員たちに十分根回しをした上で、昭和27年9月のある夜、木原を料亭に誘った。ほかの役員たちも一緒である。

 役員の一人が、口火を切った。

「このままやと和江商事の信用が失われる。ここは木原さんには会長になってもらい、塚本専務がもう一度社長になるしかないと思うんやが」

「そうだ」

「それしかない」

 他の役員も口々に同意する。

 寝耳に水の木原は、だまし討ちのようなやり方に怒って憤然と席を立った。

 こうして木原は会長となり、幸一が社長に返り咲いた。木原工場統合による社長退任から1年2ヵ月後のことであった。

 まさにクーデターだ。

「わしは塚本にだまされた」

 木原は方々でそう口にした。世間もよく思わない。“塚本はうまく木原工場を乗っ取ったのだ”という悪評がたち、一時、木原会長との間に険悪な空気が漂った。

 だが幸一は経営者である。非情な決断をすることが必要なときもある。社員数70名になった和江商事を存続させるためには仕方がなかったのだ。

 取締役として入社していた木原の息子(晃三郎)でさえ、自分の父親の更迭に賛成していた。苦渋の選択だった。

 幸一は結果で納得してもらうしかないと思った。

 実際、3年ほど経つと木原も、幸一の決断の正しさを理解できるようになり、その後は、もともと自分が得意にしていたものづくりの面でのサポートを申し出てくれ、このお家騒動は幕を下ろした。

 2派に分かれて闘争を続けるということもなく、後遺症を全く残さなかったのは、幸一の思惑通り、この後の彼の経営手腕が見事な冴えを見せ、圧倒的な求心力を見せたが故であった。