再起動 リブート
【第10回】 2017年1月4日 斉藤 徹

これからは、みなさんの代わりに機械が稼ぐ時代です【『再起動 リブート』試読版第8回】

波瀾万丈のベンチャー経営を描き尽くした真実の物語「再起動 リブート」。バブルに踊らされ、金融危機に翻弄され、資金繰り地獄を生き抜き、会社分割、事業譲渡、企業買収、追放、度重なる裁判、差し押さえ、自宅競売の危機を乗り越え、たどりついた境地とは何だったのか。
本連載ではいち早く話題のノンフィクション『再起動 リブート』の中身を、先読み版として公開いたします。


月商一億円を達成──[1992年12月]

 さらに、僕たちはダイヤルQ2番組のコンサルティングや運用代行サービスも開始した。

 お金はあるがノウハウがない。でもダイヤルQ2の甘い汁を吸って儲けたい。そんな投資家向けに、コンピュータの開発や運用、コンテンツ、広告、そして報告業務まで、すべてをパッケージングして提供し、手数料をいただくサービスだ。墨田さんのやり方を僕なりに見習ったのだ。

「これからは、みなさんの代わりに機械が稼ぐ時代です」

 僕はクライアントにそう語りかけた。クチコミだけでクライアントはすぐに集まった。新市場の勃興期には、濡れ手で粟の儲けを狙ってあやしげな人たちが大挙して押し寄せる。毎日のように、あちらこちらで新しいサービスが産声をあげていた。

 フレックスファームは順調に成長を続け、1992年末には月間の売上が一億円を超えた。

 創業わずか一年八ヵ月で月商一億円だ。これで楽しくないわけがない。僕たちは成長路線をひた走っていた。

 一方、事業の急拡大にともない、現場はてんてこ舞いだった。人手を増やさなくてはいけない。管理するのも管理されるのも苦手だった僕は、前代未聞の人事施策を考え出した。社員の待遇を三種類だけに限定し、それぞれ固定給としたのだ。

「僕を含めて役員五人の報酬は全員一律で月80万円。管理職の給料は月60万円、一般社員は月40万円。職種は問わない。これで恨みっこなしね」

 給料に格差をつけ出すと、なんらかの評価が必要だ。それが面倒臭かったのだ。「なんとかする会社」を夢見ていた僕は、社員が気持ちよく働ける環境を用意するのが経営者の仕事だと思っていた。説明を聞いた社員はビックリしただろうが、金額的には大いに刺激になったようだ。製造原価は徹底的に削減したが、人には手厚くするのがフレックスファームの流儀だった。

 この制度をはじめてから、社員の紹介で続々と人が集まり、社内はベンチャー特有の熱気であふれかえった。採用広告を出すことなく、瞬く間に40名を超える体制ができあがった。

 人数が増えたので、本社をそれまでの緑が丘のマンションから、目黒区祐天寺の二フロアのビルに移転した。さらに、営業拠点として、新大阪に支店と銀座オフィスを新設した。

福田の参戦──[1992年12月]

 その頃、日立製作所に勤務していた福田は、僕の自宅から歩いて数分、新川崎の高層ビルに勤務することが多く、日常的にウチに泊まりにきていた。

「フレックスは絶好調だぜ。そろそろ来てくれよ」

 僕は六人組のなかでも際立って人のいい福田に狙いを定め、酒を飲んでは口説いていた。

「まあ、日立にはずいぶんと世話になってるのに、迷惑かけてるからなあ……」

 福田の失敗談は、僕たちにとって最高の酒の肴だ。

「おまえ、またなんか失敗したのか」

「このあいだ、電子基盤の試作をしていて、ちょっと配線を間違えたんだよ。そしたら、いきなり基盤が燃え出して、高価な実験機材が使い物にならなくなっちゃったんだよなあ」

「福田さん、またやったんだ」

 福田と大学時代から知り合いだった若菜も、育児の合間を縫っては飲みに参戦していた。

「まあね。おかげで、部長に『損害は億ではすまんぞ!』とこっぴどく叱られたよ」

「おまえ、毎週のように上司に怒られてるよな」

「まあな」

 決まりが悪そうに頭をかいて笑う福田に、僕は追い討ちをかけた。

「もう日立じゃ出世できないって。一緒にやろうぜ」

「それがいいかもなあ」

 酔って気が大きくなった若菜も、からかうように福田の背中を押した。

「福田さん。もう辞めちゃいなよ」

「そろそろ考え時かなあ」

 そんなたわいもない会話が続き、三人の飲みのピッチも速まってゆく。

「若菜、斉藤が勝手にIBM辞めちゃって心配じゃなかったの?」

「そりゃ大変だったのよ。突然だったから。二人目の子どもが生まれたばかりだったし――」

 僕は家庭のことは若菜にまかせっきり、正真正銘の仕事人間だった。世間知らずのお嬢様だった若菜は、出産や育児を経験して、いつの間にか母親の顔つきになっていた。

「だよなあ、俺も辞めたいけど、山口の両親が心配するからなあ」

「福田さんはいい人だからねえ。あの時、お母さまにも相談したけど、徹はいったん言い出したら聞かないからと諦めてたわ」

 その頃、僕の住む川崎の実家を二世帯住宅に改装し、僕の両親と僕たち夫婦は壁を隔てて暮らしていた。それで若菜も日常的に僕の両親と交流していたのだ。

「こいつはまったく聞かん坊だよな。いくつになっても子どもみたいで」

 福田も若菜も、僕のやんちゃな性格を知り抜いていた。

「それで、いつ入社する?準備しとくわ」

 いつものように僕がヤツを追い込むと、福田は真っ赤な酔っ払い顔で返答した。

「まあ、そうだな。よく考えるよ」

「なるようにしかならないわよ」

 ロレツが怪しくなった若菜が適当に合わせ、福田もまんざらでもない顔つきで笑った。

 ぐでんぐでんに酔っ払った三人は、そのままリビングで寝てしまう。翌朝になると、母がつくったてんこ盛りの料理を平らげた。それは大学時代からの習慣だった。違うのは、朝早くから、二日酔いに襲われながらもどうにか職場に向かうことだ。福田は紺色のスーツを身にまとい、僕はTシャツにジーンズ姿で、若菜に見送られて家を後にした。

 そして、いよいよその日がやってきた。1992年12月、福田浩至は日立製作所を退職し、フレックスファームに入社した。「プロレス道場」を企画した悪友六人組のなかで一番真面目な男が、常勤のナンバー2として合流してくれた。

「これから、一緒にがんばろうな」

 福田はひと言挨拶しただけだったが、その思いには格別なものがあったろう。日本を代表する大企業を辞めて、ベンチャーの世界に参戦してきたのだ。

 フレックスファームという社名に込めた僕たちの理想郷。個人を中心とした、しなやかで堅い結束を持つ組織体。そんな夢物語に向かって、僕と福田は踏み出した。若き情熱に満ちた第一歩だった。(つづく)

(第9回は1月6日公開予定です)

斉藤 徹(さいとう・とおる)
株式会社ループス・コミュニケーションズ代表 1961年、川崎生まれ。駒場東邦中学校・高等学校、慶應義塾大学理工学部を経て、1985年、日本IBM株式会社入社。29歳で日本IBMを退職。1991年2月、株式会社フレックスファームを創業し、ベンチャーの世界に飛び込む。ダイヤルQ2ブームに乗り、瞬く間に月商1億円を突破したが、バブルとアダルト系事業に支えられた一時的な成功にすぎなかった。絶え間なく押し寄せる難局、地をはうような起業のリアリティをくぐり抜けた先には、ドットコムバブルの大波があった。国内外の投資家からテクノロジーベンチャーとして注目を集めたフレックスファームは、未上場ながらも時価総額100億円のベンチャーに。だが、バブル崩壊を機に銀行の貸しはがしに遭い、またも奈落の底へ突き落とされる。40歳にして創業した会社を追われ、3億円の借金を背負う。銀行に訴えられ、自宅まで競売にかけられるが、諦めずに粘り強く闘い続けて、再び復活を遂げる。2005年7月、株式会社ループス・コミュニケーションズを創業し、ソーシャルメディアのビジネス活用に関するコンサルティング事業を幅広く展開。ソーシャルシフトの提唱者として「透明な時代におけるビジネス改革」を企業に提言している。著書は『BE ソーシャル 社員と顧客に愛される 5つのシフト』『ソーシャルシフト─ これからの企業にとって一番大切なこと』(ともに日本経済新聞出版社)、『新ソーシャルメディア完全読本』(アスキー新書)、『ソーシャルシフト新しい顧客戦略の教科書』(共著、KADOKAWA)など多数