再起動 リブート
【第11回】 2017年1月6日 斉藤 徹

マズいよ、斉藤。今月の売上は5000万円にも届きそうにない……【『再起動 リブート』試読版第9回】

波瀾万丈のベンチャー経営を描き尽くした真実の物語「再起動 リブート」。バブルに踊らされ、金融危機に翻弄され、資金繰り地獄を生き抜き、会社分割、事業譲渡、企業買収、追放、度重なる裁判、差し押さえ、自宅競売の危機を乗り越え、たどりついた境地とは何だったのか。
本連載ではいち早く話題のノンフィクション『再起動 リブート』の中身を、先読み版として公開いたします。


異変──[1993年1月]

「いずみちゃん、いいねー、そのポーズ」

「もうちょっとシャツをはだけてみようか」

「その表情いけてるねえ、サイコー!次はウィンクしてみてよ」

 カメラマンの調子のいい掛け声と乾いたシャッター音がスタジオに鳴り響く。アダルト系音声番組の広告制作のため、僕はモデルの撮影現場に駆り出されていた。きわどいショットで男たちの妄想をかき立てる。もとより風俗嫌いだった僕にとって、ピンクチラシが飛び交う世界はまるで異次元のようだった。

 これが日本IBMを辞めてまでやりたかったことなのか。欲望渦巻く撮影スタジオを横目に、僕は自分に問いかけた。墨田さんからの依頼を受け、僕たちはメーカーに転身したのだ。それ以降、トップシェアを目指して猪武者のごとく邁進した。

「とにかく前進あるのみだ」

 僕は自分にそう言い聞かせた。あれほど嫌っていたアダルト系事業に、いつしか首までドップリ浸かっていた。約一年で月商一億円にまで成長したが、伸び代はまだまだ大きいはずだ。

 僕は取引先や銀行に力説した。

「電話情報サービス市場は急成長を続けています。専門雑誌はまもなく国内市場の規模が年1000億円に届くと予想しており、米国でも同様のサービスが拡大しています。パソコンを持っていない普通の人たちでも、電話で簡単に情報を入手できるようになるのです」

 1993年といえば、ウィンドウズ95が登場する二年前。個人が気軽にパソコンを持つのはまだ先の話だ。パソコン通信にアクセスするコンピュータ・マニアを除けば、普通の人たちのコミュニケーション手段は電話くらいしかなかった。

 だが、現実は甘くなかった。ダイヤルQ2を社会的問題として取り上げる新聞記事も出はじめた。ダイヤルQ2の課金に上限はない。10分で最大1000円もの情報料がかかるため、知らず知らずのうちに驚くような金額になってしまう。全国で課金を巡るトラブルが噴出し、出会い系やアダルト系サービスに対する世間の風当たりは強まっていった。支払いを拒否する利用者も増え、事業者に対する情報料の返還請求が急増した。

 消費者離れがはじまっていたにもかかわらず、番組提供を希望する事業者は増え続けた。その結果、雑誌や新聞紙、ポスティングなどの広告が過当競争に陥り、新しく番組をはじめても利用者を確保できなくなっていった。青く広々としていた海が、いつの間にか血で血を洗うレッドオーシャンに変わっていた。事業環境はわずか半年のあいだに激変し、フレックスファームにも暗い影が忍び寄っていたのだ。

 ダイヤルQ2は時代の徒花だった。遠からずNTTは一層の自主規制に踏み切るのではないか。そんな疑心暗鬼が当時の業界を覆っていた。

 それだけではない。急成長するフレックスファームの舞台裏では、ふたつの深刻な問題が表面化していた。ひとつは既存クライアントからの無理難題。もうひとつは新規クライアントの業績不振だ。

「サーバーの調子が悪いんだよ。とにかく今から来てくれ。タクシーで技術者を派遣できるだろう」

「サーバーが止まって、ちょうどオタクに支払う月額のレンタル料金分損したから、今月は支払えないからな」

 電話口に怒号が響く。リスクを回避するためのレンタル契約や保守契約はしていたが、トラブルが発生すれば、そんな約束はおかまいなしだ。大金を稼ぐダイヤルQ2事業者の多くは強気一辺倒で、理不尽な要求は日増しにエスカレートしていった。

 ダイヤルQ2番組のピークは深夜であり、僕たちが提供しているサーバーは、真夜中に黙々と稼ぐことが最大の売りだった。しかしサーバーが停止すると、瞬く間に数十万円の売上機会の損失に結びついてしまう。

 携帯電話もない時代だ。僕たちは社内の連絡網にポケベルをフル活用し、社員が深夜に自宅でサーバーをリモート保守できるシステムも構築していた。それでも100台を超すサーバーを出荷していると、連日のようにどこかでトラブルが発生する。頻繁に呼び出されるので、24時間体制で社員に張りついてもらったことも、一度や二度ではなかった。これでは現場が持たない。技術者たちは疲弊していった。

 一方で、新規クライアントからも苦情が相次ぐようになった。

「番組は立ち上がったけど、想定より売上がだいぶ少ないじゃないか」

「こんなんじゃ商売になるわけないだろ。いったいどうなってるんだ!」

 過当競争で新しい番組を立ち上げても新規利用者の獲得が困難になっていた。サーバーや広告の準備があるため、契約締結から番組開始までには三ヵ月ほどかかる。その間も競合番組は増え続け、売上が当初予想を大きく下回ってしまう。売上や利益を保証していたわけではないが、彼らの怒りの矛先は、当然のように僕たちに向けられた。

 ダイヤルQ2市場は早くも踊り場を迎えていた。

禁断の果実──[1993年2月]

 現場でトラブルが噴出していた頃、僕はもっと致命的なミスを犯していた。
 急成長を目指すあまり、入ってきたお金をそのまま投資に回す“自転車操業”を行っていたのだ。自転車はペダルを漕ぐのをやめると倒れてしまう。力強く成長している時には問題は表面化しないが、いったん成長のスピードが鈍ると、とたんにバランスを崩して危機に陥る。当時の資金繰りは、まさにそれだった。

 クライアントからの預かり保証金が約一億円、前受け広告費が約5000万円あったが、それらをほぼすべて運転資金――人件費、オフィス費用、回線費用、機器の仕入れ代金など――に積極投入し、事業拡大を加速させていた。

 だが、僕の見通しは甘かった。ブームが去ると、業績は下降線をたどり、一億円あった月商は一気に目減りしていった。

「マズいよ、斉藤。今月の売上は5000万円にも届きそうにない……」

 福田が深刻な表情で話しかけてきた。

「社員40名の人件費だけで2000万円を超える。それに家賃に回線費用、仕入れ代金を払うと完全に赤字だ」

 僕は無言でうなずくしかなかった。それは、僕たちが起業してはじめて迎えた危機だった。資金を先食いしていたために、損失以上に急速に資金繰りが悪化していた。

 リスク管理に長けた経営者であれば、市場縮小の兆候を敏感に察知し、すぐに身の丈に合ったサイズまで事業の縮小を断行したはずだ。しかし、僕はリストラに踏み切れなかった。なんとかして事業を維持したい。社員の悲しむ顔を見たくない。そのため、僕の打ち手はことごとく後手に回った。

 このままいけば、早晩お金が足りなくなる。資金不足をカバーするために、国民金融公庫や城南信用金庫から1500万円ほどを借り入れていたが、それだけではとても足りない。とにかくお金を借りよう。僕はそう思い立ち、祐天寺に本社を移転して以来、積極的に営業をかけてきたあさひ銀行(現りそな銀行)の担当者を呼んで、資金の借り入れについて相談した。

「御行から融資をいただくことは可能でしょうか?」

「ありがとうございます。できるだけご支援したいのですが、まだ創業して間もないので、信用だけでお貸しするのはむずかしいです。何か担保になるものはありませんか?」

「会社にある資産は、納品するためのコンピュータ機器ぐらいですね」

「それだと厳しいなあ。ちなみにご自宅は自己所有ですか?」

「はい。実家ですので、両親と僕と妻の分割所有です」

「そうですか。ご自宅を調べさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「わかりました。お願いします」

 銀行のアクションは素早く、翌日には電話がかかってきた。自宅に根抵当をつけさせてもらえれば6000万円まで貸し出せるとのことだった。根抵当権とは、将来借り入れる分も含めて、あらかじめ不動産に設定しておく抵当権のことで、6000万円の枠内であれば、必要な時に必要な額を借りることができるものだ。

 家を担保に入れるか、それともこのまま資金難に突入するか。

 自宅の土地と建物はすべて僕の所有物というわけではなく、土地は父親名義、二世帯住宅の一棟は父親、もう一棟は僕と妻の共同名義だった。返済するアテはない。だが、放っておけば、資金は確実にショートする。社員や顧客、取引先、株主、あらゆる関係者に迷惑をかけることになるだろう。

 すべての責任は僕にある。自宅を担保に入れなかったとしても、すでに個人で会社の借入金や賃貸契約の連帯保証をしており、それが返せないと必然的に自宅をどうするかという話になるはずだ。どうせ結論が同じなら、今資金を調達して再起をはかるのが得策ではないか――。

「お金が足りなくなりそうなんだ。自宅を担保に借り入れたい。この土地と建物を僕に預けてもらえないだろうか」

 思い悩んだあげく、僕は母に事情を説明した。

 突然の申し出だったが、母は驚いたそぶりさえ見せず、父と相談してみると言った。心中穏やかであったはずはない。息子の会社はうまくいっていると信じていたのに、いきなり借金の相談だ。会社を立ち上げた時も、何も言わずにお金を貸してくれた両親だ。さぞ複雑な思いがあったに違いないが、その時も文句のひとつも言わずに僕のわがままを聞き入れてくれた。

 二世帯住宅の隣の自宅に帰ってから、若菜にも同じことを説明した。彼女は少し心配そうな顔つきをして「そうなの?」と聞いてきたが、僕が黙ってうなずくと、最後は「わかった。あなたの好きにして」と言ってくれた。

 今、この急場をなんとかして切り抜けたい。そんな現実逃避の甘えから、僕はついに禁断の果実を口にしてしまった。それがこの先、何年も続く借金地獄の入り口だったとは、その時はまだ知る由もなかった。(つづく)

(第10回は1月9日公開予定です)

斉藤 徹(さいとう・とおる)
株式会社ループス・コミュニケーションズ代表 1961年、川崎生まれ。駒場東邦中学校・高等学校、慶應義塾大学理工学部を経て、1985年、日本IBM株式会社入社。29歳で日本IBMを退職。1991年2月、株式会社フレックスファームを創業し、ベンチャーの世界に飛び込む。ダイヤルQ2ブームに乗り、瞬く間に月商1億円を突破したが、バブルとアダルト系事業に支えられた一時的な成功にすぎなかった。絶え間なく押し寄せる難局、地をはうような起業のリアリティをくぐり抜けた先には、ドットコムバブルの大波があった。国内外の投資家からテクノロジーベンチャーとして注目を集めたフレックスファームは、未上場ながらも時価総額100億円のベンチャーに。だが、バブル崩壊を機に銀行の貸しはがしに遭い、またも奈落の底へ突き落とされる。40歳にして創業した会社を追われ、3億円の借金を背負う。銀行に訴えられ、自宅まで競売にかけられるが、諦めずに粘り強く闘い続けて、再び復活を遂げる。2005年7月、株式会社ループス・コミュニケーションズを創業し、ソーシャルメディアのビジネス活用に関するコンサルティング事業を幅広く展開。ソーシャルシフトの提唱者として「透明な時代におけるビジネス改革」を企業に提言している。著書は『BE ソーシャル 社員と顧客に愛される 5つのシフト』『ソーシャルシフト─ これからの企業にとって一番大切なこと』(ともに日本経済新聞出版社)、『新ソーシャルメディア完全読本』(アスキー新書)、『ソーシャルシフト新しい顧客戦略の教科書』(共著、KADOKAWA)など多数