あらためて国家の役割を考えた

 5月の連休を活用して、被災地を見て回った。

 たまたま宿泊した場所には、被災自治体の避難所兼仮設町役場(支所)が設置されており、夜遅くまで高齢者の方が話し込んでいる姿が印象的であった。翌日訪れた石巻漁港の惨状は、筆舌に尽くしがたいものがあった。

 瓦礫のあいまに、つい先日まで使っていたであろう生活用品が無残な姿で散らばり、津波が日常を一瞬にして破壊したことを物語っていた。女川地区を回ると、延々と続く扇形の入江は、完膚なきまでに津波に巻き込まれて破壊されていた。山に囲まれた地形の谷線を、10メートルを超す津波が駆け上ったのである。

 この震災がわれわれにもたらすものは、物質的な変化というより心理的・精神的な変化で、今後、様々な場面におけるわれわれの判断や発想に、目に見えない形での影響を及ぼすのではないか、というのが実感であった。

 もう一つ、国家とは何なのかということである。自然災害により親族やお金や思い出までも失った国民に対して、国家は何をすべきなのか。直感的に浮かんだのは、彼らに対して、少なくとも憲法の保障する健康で文化的な生活をおくる権利を保障するという役割である。

 日本国で生まれ育ち、生活のために働いてきた以上、国家はこのような危機こそ全力を挙げて救済すべき役割を負っている、このことを強く感じさせた。その上で、国家がその役割を果たすべき財源について考えてみた。