私たちの生活に密接にかかわる「物価」。現在、日本において「デフレ脱却」にかんする報道を見ない日はほとんどない。しかし、今はインフレなのかデフレなのかを測定する方法が、実は正しくないとしたら……? 新刊『経済指標のウソ』の著者、ザカリー・カラベルは、インフレ(デフレ)の測定方法は、インターネット時代に対応できていなかったと指摘する。『経済指標のウソ』第7章から一部を特別に無料で公開する。

1935年の世界を
前提にしているインフレの測定方法

インフレの測定方法は<br />インターネット時代に対応していない(写真はイメージです)

 1995年の世界は、1935年や1955年の世界とは本質的に違っていたというのに、インフレの測定方法はこの違いを反映していなかった。

 1935年には、アメリカでは地方の電化はまだ実現していなかった。ヨーロッパで戦争が起き、都市が破壊され、インフラが遮断され、何千万人もの人々が殺されたのは、そのわずか数年前のことだ。

 一方、1995年にはネットスケープが上場を控え、その後まもなくワールド・ワイド・ウェブが生活の隅々まで浸透することになる。世界のどこでも寿命が延び、グローバル化の影響力は過去とは桁違いになっていた。

 1935年には、農業と製造業が雇用と所得の源だった。ところが1995年には、先進国の農業就業人口はわずかになっていた。

 製造業でも1970年代以降、雇用が減少した。その一方で、情報技術からコンサルティング、エンターテインメントなどのサービス業が中心になろうとしていた。

 統計は、依然として製造業に焦点を当て、国民国家を基準とし、主に男性労働力によって定義されていた

 統計の専門家は、経済の発展に応じて測定法も発展する必要があることを理解していた。過去100年で、物質的世界が本質的に変化したわけではない。

 しかし政治や経済制度は劇的に変化し、現在もなお、人類史のどの時点よりも急速に変化し続けている。わずか5、60年前に作られた統計でさえ、1990年代には時代遅れになる危険があった。

 統計担当者が、経済システムの流動性に気づいていなかったわけではない。その逆で、アメリカ政府などで働いていた統計学者や経済学者は、常に経済システムの変動に留意していた。

 1940年代に最初の消費者物価指数(CPI)を構成していた財のバスケットは、現在とはまったく異なる。当時は食料品が重要な要素だった。

 1950年当時の平均世帯は、可処分所得の22%以上を食料品に使っていた。現在では11%。パンや肉などの品目は過去数十年にはもっと重視されていた。衣類もそうだ。

 タイプライターは20世紀半ばに加わったが、コンピューターは含まれていなかった。電話は含まれていたが、スマートフォンはまだだった。

 これらの変化はインフレがどのように測定されるかに影響を及ぼす。固定バスケット方式であっても、新しい品目が加わり、古いものが除外されるため、バスケットはその都度調整される。

 しかし、大きな変化が反映されるのは、データの分析法が変わる場合のみだ。ダイヤル式電話機やベータマックス(家庭向けビデオテープレコーダー)の突然の死が示すように、技術やライフスタイルの変化に基づいて、調査から除外される品目や新たに加わる品目がある。

1960年と2010年自動車は
同じ機械といえるのか?

 しかし、同じ品目が改善されても、その変化は目には見えない。自動車はどの時代に製造されようとも、自動車だ。

 経済指標に関わる人たちは、1950年、1990年、2010年のどの時点でも、ある品目(たとえば自動車)は時代を経ても同じ品目(自動車)だと考えていた。

 しかし、実際には自動車は別の機械になっている。「自動車」という品目の変化が考慮されなければ、自動車の価格上昇は、ある品目が次第に高価になっていることを示すにすぎなくなるだろう。

 こういった価格上昇を「インフレ」と呼ぶのは正しい。実際、自動車は1960年には3000ドルだったのが、1990年には2万ドルと次第に高価になっている。

 生活費に関しては、希望小売価格の上昇が重要だ。しかし、それだけではない。1960年製造の自動車は燃費効率が悪かっただろう。ガソリンを食っていたはずだ。

 ところがガソリン価格の大きな変動にもかかわらず、平均世帯の家計費に占めるガソリンの割合は、1970年から2011年のあいだも約3.5%に留まっている。燃費効率の向上やアンチロック・ブレーキ、エアコンなどが主な理由だが、自動車の値札を見ただけではわからない。

 1990年には、1960年よりも自動車にお金がかかっていたのかもしれない。しかし、ガソリンの消費量は少なかった。したがって、「生活費」は自動車の値段に合わせて上がることはなかった

 インフレ率が生活費の計算を誤らせる本質的変化を隠しているという認識は、かつては斬新で異論の多かったヘドニック法(製品改善を考慮した分析法)の導入につながった。

 経済システム自体が流動的なのに、定義する手法が静的なら、数字と現実の世界のあいだには乖離が生じるだろう。

なぜ1990年代のアメリカで
高インフレが起きなかったのか

 GDPによって測定された経済成長は、20世紀のほとんどの時点よりも急速に拡大していた。失業率は低く、インフレ率は統計的にはきわめて低かった。生産性も低かったが、企業は記録的な収益や利益を報告していた。

 これは多くの人々にとって納得できないことだった。経済理論によれば、高成長で労働市場が逼迫していれば、生産性が高くならない限り、高インフレが生じるはずだ。

 生産性は比較的シンプルな概念で、投入量(インプット)に対してどれだけの生産量(アウトプット)があるかを示す。わかりやすく言えば、1人の人間あるいは1台の機械が、1時間でどれだけのものを生産できるかということだ。

 理論的には、高成長、低失業率、低インフレになるのは、各労働者が同じだけの労働力と所得で生産量を増やす場合だけだ。さもなければ、財は不足し、賃金は上昇し、需要は高まり、インフレ登場、というわけだ。

 しかし、1990年代半ばには、経済分析局(BEA)によって測定される生産性の伸びは控えめで、経済が成長しているにもかかわらず、なぜ賃金が低く、インフレ率が低いのかを説明できなかった。

 当時のFRB議長グリーンスパンの答えは、インフレの測定法だけではなく、生産性の計算法にもどこか間違いがあるに違いないというものだった。足し算だけでは十分ではないと彼は考え、FRBの経済学者に問題の究明を命じた。

 彼らは、「多要素生産性」という概念に注目した。労働力や資本だけでは説明されない時間当たりの生産量を把握するものだ。

 労働と資本からすべての生産量を説明できないなら、唯一可能な説明は「技術」である。1990年代には、技術は情報技術、パーソナルコンピューター、インターネットを意味していた。どれも、インフレや生産性や、その他すべての指標が考案された時代には存在しなかった。

インターネットに
取り残された経済指標

 1990年代のほとんどの時期には、インターネットの普及によって、無限の繁栄やうなぎ上りの景気というユートピア幻想が国民のあいだに広がった。株価は高騰し、政府は財政黒字を達成していたというのに、経済指標は生産性のわずかな増加を示すのみだった。

 コンピューターと、互いにつながることで生まれる新しく壮大な世界が、私たち全員の働き方や遊び方を変え始めていることに、誰もが気づいているように見えた。

 通信や情報伝達の新しいツールによって、もっと効果的に働き、もっと効率的に製造し、もっと大胆に遊べるようになると感じながらも、誰もそれを証明することはできなかった。

 会社でコンピューターを使っていた労働者は、売上高をもっと素早く分析できるようになっていただろうか。インターネットでスポーツの試合の結果を見るために、今までよりも時間を使うようになっていただろうか。

 答えはイエスで、社会の大半がインターネット革命を経験しているというのに、統計はその現実を示してはいなかった

 FRBの経済学者は、代わりの統計や算出法を求めるグリーンスパンの難題に応え、情報技術の影響を把握しようと試みた。

 「多要素生産性」の計算によって、経済は効率性を高めていることが明らかになる。労働や資本の生産性は、技術によって高まっていた。生産性を測定する新しい手法は、ほとんどの人が実感していることと、統計が示すものとの乖離を埋めた。

 指標が変化に追いついていないというグリーンスパンの鋭い指摘は、「経済」を測定し牽引する社会の能力が低下しつつあるという警鐘だったはずだ。

 ところが、優秀な統計学者や経済学者が取り組んだのは、手法や基盤となるデータの改善による既存統計の改善にすぎなかった。

 もっと多くのデータがあれば、もっと優れた統計があれば、経済をうまく運営できるという考え方は、特に1990年代以降主流になり、真剣に見直されることはなかった。