金融業界は今や、政治を動かし、一度揺らいでしまえば日々の暮らしを左右する存在になってしまった。世界的に尊敬を集める世界最高のエコノミストの一人であるジョン・ケイは、最新刊『金融に未来はあるか』で、他の産業とは違う特別な存在であるかのように語られる金融業界の神話を切り崩し、巨大銀行の業務の大半が社会にとっていかに有害無益であるかを解き明かす一方で、リーマン・ショック後、金融業界の肥大化を抑制するために導入された膨大な規制も逆効果だと断じ、銀行を「よそ様のお金を預かる」まっとうなサービス業に回帰させていくための全く新しい改革案を提示する。フィデューシャリー・デューティー、ガバナンス・コード、スチュワードシップ・コードなどを提唱し、日本の金融庁などにも大きな影響を与えたことでも知られるジョン・ケイのザ・エコノミスト、フィナンシャル・タイムズ、ブルームバーグでベストブック・オブ・ザ・イヤーを獲得した著作『金融に未来はあるか』からエッセンスを抜粋する。

資金、リスク、レバレッジ
そもそもの話

 あらゆる貯蓄、あるいは投資の決定には、資金提供とリスクの引き受けがセットになっている。

 あなたが銀行に預金するとき、銀行がそれを返してくれないリスクをあなたは引き受けている。企業に投資するときには企業に資金を提供しているわけだが、どのくらい、いつ返してもらえるのかについて、何一つ保証はない。株式を買うときには、どのくらい配当が支払われるのか、あるいは売る段になったときに株価がいくらになっているのか、どちらも定かではない。

 レバレッジとは、リスクと現金の組み合わせを調整し、借り手と貸し手それぞれのニーズに合うようにするための手段である。投資資金を必要としている企業は通常、融資とエクイティ・ファイナンスを組み合わせようとする。融資の出し手は企業に資金を供給するが、引き受けるリスクは控えめだ。

 エクイティの保有者、すなわち株主が提供する資金は貸し手より少ないが、貸し手よりも多くのリスクを引き受ける。不動産を担保とする融資もちょうど同じ仕組みで、貸し手は必要な資金の大部分を提供し、住宅所有者は残りの部分、すなわちエクイティを持ち、(大半のリスクを引き受けねばならない。一般に、リターンが高ければリスクも高くなるし、逆もまた真なりである。

 リスクの引き受けを資金提供と完全に切り離すことも可能だが、お勧めはできない。ロイズ保険市場という伝統的な組織では、まさにこれをやった。通常の保険会社なら保険請求に備えて準備金を積み立てている。しかしロイズの組織の裕福な会員である「ネーム」たちは単に、保険引き受けに伴って損失が出れば背負い、利益が出れば受け取るという契約を結んでいるだけだった。

 モーゲージ担保証券のトレーディングとは、モーゲージ市場へのƒ資金提供とリスクの引き受けを切り離そうという試みだった。そしてクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)は、ローンの提供とそのリスクを切り離す効果的な手段であるように見えた。このような発展はどれ一つとして幸せな結末を迎えなかったが、大切なのはその理由を理解しておくことだ。証券化が始まった1980年代、その考え方は単純にローンを束ねてパッケージ化するというものだった。しかし続く10年間で債務担保証券(CDO)が発展すると、パッケージは返済順位の異なるトランシェ(切れ端)に切り分けられた。

 パッケージに入ったローンについて利払いや元本の返済が実施されると、その資金はまずCDOのシニア・トランシェの返済に充てられる。次はジュニア部分やメザニン部分への返済で、最後に当該ローンが全額返済された暁には、順位が最も低い部分、つまりエクイティ・トランシェの保有者が返してもらえる。このヒエラルキーの中で順位の低い証券を持っている人ほどリスクは高くなるので、約束されたとはいえ、必ずしも実現するとは限らないリターンは大きくなる。

 ドナルド・コーンによる「グリーンスパン・ドクトリン」の説明では、こうした切り刻む行為によって金融機関は「リスクプロファイルをより厳密に選ぶ」ことが可能になったのだった。

 しかし、レバレッジのもっと単純な仕組みと同じことで、ローンの束に付随するリスク全体が、パッケージを組み替えたからといって変わるはずがない。担保が乏しく、信頼の置けない借り手向けのローンでも、寄せ集めれば別物に早変わり、なんていう錬金術は存在しない。

 ちょっと目を凝らせばわかることだが、これらの証券を買った銀行の顔ぶれは、それを売った銀行の顔ぶれとほとんど同じだった。だからグリーンスパン・ドクトリンでは物語のすべて、いや大部分でさえ語り尽くせないはずだと、眉に唾を付けてしかるべきだったのだ。

 資産担保証券(ABS)と、それに続く債務担保証券(CDO)の発展は、信用格付けの市場を大いに広げることになった。最高格付けの「トリプルA」に認定される証券の半分以上は、伝統的にエクソン・モービルの社債やドイツ国債が占めていたものだが、それがみるみるうちにABSのトランシェに取って代わられるようになった。

 クレジット・デフォルト・スワップ(そして、それが保証する債券)の価値は、保証会社の格付けに依存していた。だからAIGの格付けが引き下げられたことは、債券ポートフォリオの安全性に対する影響という意味で、衝撃的な出来事だったのである。

金融マンの真価を決める?
馬鹿げた「テールゲーティング」

 こんなことがいったい何の役に立つのだろう? こうした多種多様なレバレッジ形態がなぜ投資家を魅了し、流布するのかを解き明かすには、標準的な金融理論の枠組みの外に踏み出してみるのが一番だ。レバレッジは、控えめなリスクを二つの構成要素に分けることを可能にする。大きな損失を出す確率の低い予想可能なリターンをもたらす債務部分と、リターンが大きく振れるエクイティ部分である。しかし、いずれの要素も問題含みで、価値評価を誤らせやすい。

 多くの人々や組織は、大損をする確率が低いような状況に、なかなかうまく対処できない。私はフランスの高速道路でよく車を運転するが、そこでよく見られる運転テクニックにテールゲーティングがある。高速で飛ばしてあなたの車のリヤバンパーにぴたりとくっつけ、ライトを点滅させて道を譲れと迫るあれだ。

 たいていの場合、テールゲーティングは成功する。100%ではないが、普通は男性のこうしたせっかちドライバーは、目的地にほんの少しだけ早くたどり着ける。もちろん時には、ついに目的地にたどり着けずじまいということもある。

 テールゲーティングは繰り返しわずかな利益をもたらし、頻度は少ないが、時として大事故につながる。ドライバーは自分自身に、そしてたぶん他の連中にも、自分は運転の腕がいいから成功するのだ、と言い聞かせる。そして衝突事故が起こる(フランスでは交通事故が発生する比率が高く、運輸大臣が国民に「イギリス人のように」運転しましょうと訴えた、という有名な逸話があるほどだ)。ところが衝突事故について語られるときには、認知的不協和という要素が忍び込むものだ。

 事故に遭った者は通常、不運を誰かほかの人のせいにしようとする。その言い分にもたいてい一理はある。テールゲーティングが招いた事故なのに、路上に障害物があったとか、別のドライバーがミスしたとか、何か別の直接的な引き金があったと言うのだ。多くのバンカーはこれと同じような認知的不協和を盾にして、世界金融危機の原因は無分別な行動ではないと自分自身、そして他人に言い聞かせた。

 テールゲーティングのリターン分布を見ると、小さな利益が出る確率が高く、大きな損失に見舞われる確率は低い。金融経済学者はこの種の取引を「大幅にアウト・オブ・ザ・マネー(訳注:オプション取引において買い手側が権利を実行すると損失が出る状態のこと)のオプションを売る」と表現する。

 こうした分布状態は評価するのも管理するのも難しい。会計士は、起こる可能性はあるがおそらく起こらない出来事を財務諸表上に記載する方法について、常に頭を悩ませてきた。ラグラム・ラジャンが、馬耳東風のジャクソンホールの聴衆に説いたのは、まさにこのようなテールゲーティング現象だったのだ。

 交通問題の権威はおしなべて、テールゲーティングがもたらす事故のコストと影響は、テールゲーティングの成功がもたらす恩恵を上回ると考えている。しかしこうした定理は、長年にわたる数多くの事例があって初めて根付くものだ。しかもそんな調査結果が出たからといって、多くのテールゲーターがその愚かな行為を改めるとは考えにくい。彼らは相変わらず、こう考えるだろう。

 ドライバー人口全体の統計がどうであれ、自分のような腕のいいドライバーには当てはまらないと。それに、実際にそのとおり、という場合だってあるかもしれない。

金融マンの愚行をテールゲーティングと
勝者の呪いで説明する

「アウト・オブ・ザ・マネー」のオプションは、適切に評価するのが難しい証券の、ほんの一例にすぎない。パッケージから債務部分を取り除くと、残りは変動の激しいエクイティ部分だ。このようなリスク分布は、その性質からして不確実だ。こうしたパッケージの価格評価には、どうしても間違いがつきまとう。資産価値を過大評価してしまうこともあれば、過小評価することだってある。

 しかし、レンブラントの真筆だと信じている人に贋作を売るほうが、贋作だと思っている人にレンブラントの真筆を売るよりも簡単だ。つまり、間違いが起こる確率は同じではない。資産の所有者は、その価値を過小評価している人であるよりも、過大評価している人である確率のほうがずっと大きいのだ。この問題は「勝者の呪い」として知られる。

 あるアイテムの性質や価値によくわからない要素がある場合は、常に、それを買った人の多くが、判断を誤った故に買った人だろう。そして証券市場には、常によくわからない要素がある。だからこんなに大量の取引が行われているわけだ。ある株式の適正価格が確実にわかっている者などいない。融資が確実に返ってくると言い切れる者はいない。コモディティや通貨の価値は、常に不確実である。

 あなたが誰かから株式を買うとき、相手は常にそれを売りたい人だ。その他大勢の人々は、あなたが払うと承諾した価格でその株式を買うという選択をしなかった。そうだとすると、ちょっと考え直してみようと思うはずだ。ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(RBS)がABNアムロを買ったのは、世界中のどの銀行よりも高い値段で買いに応じたからだ。

 勝者の呪いがこの銀行を襲い、最高経営責任者(CEO)に赤っ恥をかかせたのは、ほんの数カ月後のことだった。勝者の呪いはごく一般的な、どこにでも見られる問題だが、レバレッジの拡大がもたらしたきわめて不安定なリターン分布を踏まえると、とりわけ重要性を帯びてくる。リターンについて、あるいはその確率についてほんの小さな判断ミスを犯すだけで、トレーダーが価格の判断をすっかり誤るという結果をもたらしかねないからだ。

 テールゲーティングと勝者の呪いは、レバレッジが生み出した多くの愚行を説明してくれる。しかし、その他の愚行は、他人の金かねで儲ける機会がもたらした結果だ。金融業界の報酬制度には曖昧な点が残されていることが多く、これは建前上、依頼人とエージェントの利益を平等に取り扱うのが目的だが、その一方で、トレーディングで相場が上昇しているときのほうが、下落しているときよりも報酬が増える傾向が歴然としてある。そうすると取引はいきおい、結果が大きく振れやすいようなものに偏っていく。

 レバレッジを掛けたほうが有利になり得る理由は、ほかにもある。利子収入にかかる税金と、キャピタルゲイン(売買による利益)にかかる税金が異なるということは、キャピタルゲインを手に入れて利子は控除しようという者がいる一方で、そうでない者もいることを意味する。このことは、取引の参加者にとって価値あるトレーディング機会を生み出すが、彼らが得たうまみは、納税者一般の不利益によって相殺されるか、ひょっとすると相殺されて余りあるのだ。

 近年起こったほぼすべての金融危機において、レバレッジが中心的な役割を果たしてきた。レバレッジを利用すれば、リスクテークとリスク管理をより効率的に行えるようになるため、効率性の向上につながり得る。しかしレバレッジの利用は、テールゲーターや他人の金でギャンブルをする連中にチャンスを与え、そして勝者の呪いにはまる機会もたっぷりもたらされる。「大いなる安定」期には、こうした機会がフルに活用された。

世界金融危機が起こったとき、ドイツ銀行の負債は株式資本の50倍を超えていた。そしてこの計算ですらレバレッジの規模を過小評価していたのである。金融システムにリスクが蓄積されていたとき、バーナンキ、グリーンスパン、ガイトナーその他の面々は、本当は何が起こっているのかと考えていたのだろうか。

 たぶんアプトン・シンクレアが、その答えを言い当てている。「政治的にもイデオロギー的にも、あまり目を凝らして見たり、詳しく分析しすぎないほうが好都合だった」。そして今もなお政治家と一般市民は、おつむの良い高給取りの人々がつくった途方もなく複雑な取引を見て、無知と混乱どころか、深遠な知性の産物だと素直に信じようとしている。あんなに高度な数学なのだから、きっと良いことに使われているはずでしょ?

 だが、この思い込みに根拠は乏しかったし、今も乏しい。大手金融機関の活動は、外からはよく見えなかった。取引されている商品は理解しづらく、往々にして価格の付けようもなかった。採用されたリスクモデルは、極端な出来事が起こった場合のインパクトを把握するのには、事実上役に立たなかった。リスクモデルというものは当然、そうした状況のために設計されているはずなのだが。

 ゴールドマン・サックスの最高財務責任者(CFO)だったデヴィッド・ヴィニアは、世界金融危機が勃発した2007年8月、同社が数日間連続で「25標準偏差イベント」を経験した、と訴えた。しかし、統計学の知識がある者(ヴィニアは当然そのグループに含まれるはず)なら誰でも、短期間に25標準偏差イベントが何度も起こるなんてあり得ないのを知っている。彼はつまり、同社のリスクモデルでは、実際に起こったことを説明できなかったと言いたかったわけだ。

 極端な事象は一般的に、「モデル外の」出来事の産物である。コインを100回投げて100回とも表が出たとしたら、あなたは統計上の異常事態に遭遇したのかもしれない。しかしまずは、もうちょっと単純な理由を探してみよう。表面上いかにも洗練を極めているように見えた世界の支配者連中は、目の前で何が起こっているのか、よくわかっていなかったのである。

『金融に未来はあるか――ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実』より