お盆がやって来る。亡き人に思いをはせる時期にこそ、考えてみたいことがある。故人や家族が納得できる弔い・供養とは何なのか。安心して任せられる弔い・供養とは何なのか。今、人生を締めくくるエンディングのかたちは多様化している。家族葬専用のホール、都市型の納骨堂、生前予約や相談、少額短期保険、地震対策が施された墓石、改葬など葬儀にまつわるサービスはよりきめ細かく充実してきている。納得&安心できるエンディングには、正しい情報収集が第一歩となる。

 

「演劇には、もともと老いや死をどのように受け入れていくかというシミュレーション的なところがある」と語る劇作家の平田オリザ氏。人はどのように生き、死んでゆけばよいのか。混迷する時代のなかで、生と死の予行練習を舞台の上で表現し続ける平田氏に、理想の葬儀のかたち、生と死に対する思いを聞いた。

人はさまざまな役柄を
演じながら生きる

 私は演劇をやっている人間なので、人間とは演じる生き物だと思っています。たとえばゴリラやチンパンジーは演じることができません。人間だけが演じ分けることができる。つまり、生きるということは演じることであり、死ぬというのは演じ切ること。人はうまく演じ切れたときに、生きてきた充実感を得るのだと思うのです。

 以前、不登校の子どもたちと演劇をつくる活動をしていたことがあります。中学生になって不登校になる子が多く、そういう子の多くは、小学校までは“いい子”で、みんな口を揃えて「いい子を演じるのに疲れた」と言います。もう一つは「本当の自分はこんなんじゃない」とも。そんなとき演劇人である私は、「演じたこともないくせに、いい子を演じるのに疲れたなんて勝手なことを言うな」と厳しく言います。「本当の自分はこんなんじゃない」と言う子には、「本当の自分なんて見つけちゃったら大変なことになるぞ」と言う。

 ペルソナ(仮面)という言葉があります。人は社会的な関係のなかでいろいろな仮面をかぶって生きています。たとえば大人の男性ならば、「夫」や「サラリーマン」「マンションの管理役員」「週末のボランティア」など、社会生活のなかでさまざまな役柄を演じながら、かろうじて人生を前に進めている。

 日本人は演じるということに抵抗があり、自分を偽る、自分に嘘をつくというイメージが強いのですが、なにも仮面をかぶることが悪いわけではない。むしろ本来の自分などなく、いろいろな仮面が自分というものを形成しているのだ、と考えるべきなのです。

「いい子を演じるのに疲れた」と言う子たちに、「いい子を演じる必要はない」と言うのは大人の欺瞞にすぎなくて、むしろいい子を演じるのに疲れないタフな子どもをつくるのが、本来の教育だと思う。それはわれわれの人生においても同じで、人生の場面場面で、仮面を軽やかにかぶったり、かぶり替えたりするほうが大事なのだと思います。

平田オリザ 劇作家1962年生まれ。国際基督教大学卒業。劇団「青年団」主宰。95年に「東京ノート」で岸田國士戯曲賞を受賞。公演やワークショップを通じた海外との交流や、演劇教育プログラムの開発など多角的な演劇活動を展開している。現在、内閣官房参与、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授。著書に『演劇入門』(講談社現代新書)『対話のレッスン』(小学館)他多数。