大正2(1913)年の創刊から現代まで、その時代の政治経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーには、日本経済の埋もれた近現代史が描かれている。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』をさかのぼりながら紐解き、日本経済史を逆引きしていく。

2.26事件の約2年前、
高橋是清はどう評価されていたか

 1936年2月26日、陸軍皇道派による軍事クーデターが起き、首相官邸などが襲撃された。岡田啓介首相は救出されたものの、高橋是清蔵相、斎藤実内相、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害された。

 高橋是清(1854-1936)は、1934(昭和9)年11月、岡田内閣で実に7回目の大蔵大臣へ就任した。81歳である。1921年11月から22年6月までは首相兼蔵相、立憲政友会総裁も経験している超大物政治家だった。

 高橋是清は1920年代末の金融危機では積極財政に乗り出し、1931年12月に犬養毅政友会内閣の蔵相(5回目)に就任すると、ただちに金輸出を再禁止(金本位制からの再離脱)して1932年は財政を拡大し、昭和恐慌からの脱出を図り、成功する。世界経済史上、恐慌からの素早い脱出策では成功例のひとつである。

 しかしその後、岡田内閣の蔵相時に公債漸減の方針を打ち出し(1935年)、軍事費の圧縮に乗り出す。財政再建に転じたわけだ。軍縮の多国間交渉の結果を反映している面もあった。軍縮は職業軍人の失業を伴う。若手将官が高橋を敵とみなした背景がここにある(★注①)。

★注①多くの現代史家が書いているが、特に筒井清忠『近衛文麿』(岩波現代文庫、2009)を参照。

 1933-34年ごろ、高橋是清がどのような政治家だと見られていたのか、面白い記事が「ダイヤモンド」(1934年1月1日号)にあった。ダイヤモンド社社長・石山賢吉と佐々弘雄(★注②)の対談である。題して「非常時に踊る人物」。2.26事件の2年弱前のものだ。各界の人物を2人で批評している。

★注②佐々弘雄(1897-1948)は、東大法学部卒業後、政治学者として九州大学教授。1928年3月15日の共産党一斉検挙(3.15事件)で、九大における共産主義者とされて追放。1934年に東京朝日新聞社へ入社し、論説委員。その後、昭和研究会常任委員、朝日新聞論説主幹。第2次大戦後は熊本日日新聞社長、参議院議員など。戦前の「ダイヤモンド」へ多く寄稿している。

 佐々弘雄が九大を辞め、東京で政治評論家として活動していた時期にあたる。この対談の直後、東京朝日新聞社へ論説委員として招かれている。

 対談人物評では、2人で約20人を俎上にあげているが、本稿では「高橋是清」の部分を紹介する。