昨年8~12月の連載『大震災で生と死をみつめて』の続編として、今年2月に始まったこの連載は、今回で最終回を迎える。意識の高い多くの読者に支えられ、ここまで辿り着くことができた。ありがたく思う。

 被災地で取材を続けると、腑に落ちないことがある。それは、「人災」の疑いがあるような場合でも、死に至った理由や経緯が実に曖昧なまま扱われていることだ。死に目を向けない形で「復興」は進んでいく。

 果たして、それでいいのだろうか。この連載で筆者が述べ続けてきたことのベースには、全てこうした現状に対する疑問があった。

 最終回では、その一例を取り上げ、改めて問題意識を提起したい。


死の真相から目をそらしたまま
今後の復興や防災はあり得ない

「死人に口なし」の姿勢で復興や防災はあり得ない<br />“悲劇の真相”を見つめる旅は、今ここから始まる日和幼稚園に通っていた園児の遺族たち。子どもが死に至った経緯を知るために、独自の調査を続ける。

 連載第14回で紹介した日和幼稚園(石巻市)の遺族である西城靖之さんが、このように語っていた。

「確かに、津波で子どもたちは死に追いやられたのだと思う。その意味では、自然災害なのだろう。だけど、こちらが知りたいのはそれ以前のこと……」

 この言葉の意味するものが、今回の震災をよく表している。筆者が1年数ヵ月、震災をテーマに取材をしてきた理由もここにある。

「1000年に1度の災害だから、被害が大きくなったのは仕方がない」という言葉に象徴される世論や空気によって、多くの犠牲者が出た真相が覆い隠されているように思える。真相がわからないまま、今後の復興や防災はあり得ないのではないか。避難訓練などをしようとしても、死に至った真相が見えないと、住民や子どもたちは真剣には取り組まないだろう。