社会を持たない大衆には失うものがない<br />今日では失うべきイズムもないダイヤモンド社刊
2100円(税込)

「位置と役割をもたない者にとって、社会は不合理に満ち、計算できず、とらえどころのない存在である。彼らにとって社会は半分しか見えない。半分しか意味がなく、半分は暗闇という予測不能な魔物の世界である。自らの意思では自らの生活と糧さえどうすることもできない。何がどうなっているかを理解することもできない。馴染みのない部屋で目隠しをされ、ルールを知らないゲームをさせられているようなものである」(ドラッカー名著集(10)『産業人の未来』)

 1942年、ウィーン生まれの少壮の政治学者ピーター・F・ドラッカーは、大恐慌下の世界をこのように描いた。

 産業革命によって生産力は増大した。自由に経済活動を行なえば豊かになるとのご託宣もあった。その資本主義が約束を果たせなかったとき、今度は、生産手段を労働者の手に渡すならば、さすがの難問もついに解決するとされた。

 さらに、その社会主義さえ自由と平等をもたらさなかったとき、民主主義の根づいていなかった国では、大衆が全体主義へとなだれを打った。しかし、いずれのイズムも彼らを救うには至らなかった。

 爾来、ドラッカーは、社会的存在としての人間の安全、責任、貢献を追求してきた。そのための方途が企業であり、マネジメントだった。現代社会最高の哲人とされるに至ったドラッカーが、体系としてのマネジメントを生み、育てるに至った動機もそこにあった。

 社会的存在としての人間が幸せであるためには、社会が成立していなければならない。その社会成立のための三条件が、社会の成員にとっての位置と役割であり、そこにある権力の正当性である。

 企業の役割は、財とサービスの創造だけではない。生産的な仕事を通じ、働く人たちに生計の資、社会との絆、自己実現の場を与えることにある。

 しかも、「一人ひとりの人間が社会的な位置と役割を持つことは、彼らにとって必要なだけでなく、社会にとって必要である」。

 ところが今、日本では、景気後退のさなかにあって、働く人の一部が、非正規として職を失いつつある。

「危険は、社会への参画が不可能になることにある。無関心となり、しらけ、絶望にいたることにある」(『産業人の未来』)

週刊ダイヤモンド