東日本大震災の大津波によって、児童・教職員84人という世界でも例のない犠牲者が出た石巻市立大川小学校。連載第1回は、震災から1年3ヵ月目の遺族の実情、第2回は、市教委が計画した第三者委員会設置の意味、第3回は、遺族が指摘する調査記録の主な不審点。第4回は、市教委と遺族側の話し合いの主な論点。第5回は、市教委の中で何が起きていたのかを取り上げた。今回は、この学校管理下で起きた惨事の情報が、どのように文部科学省に伝わったうえで国民に共有され、今後の防災教育への教訓として活かされようとしているのかを探った。

 学校管理下で、児童74人、教職員10人が津波にのまれて犠牲になるという、この石巻市立大川小学校での前例のない事態は、国にどのように伝わっているのだろうか。

 遺族たちが、あの日に起こった事実を検証しようとして、市教委と話し合いを続けているにもかかわらず、いつまでも解決に向けて動かない気持ち悪さがある。

 それはいったい、なぜなのか。私たちは文科省がどう事態を把握しているのかを知るため、情報開示請求を行ってみた。

震災から約1年4ヵ月
「報告」はわずかA4版で5枚だけ

文科省への報告文書はわずかA4版5枚 <br />中央官庁、大川小の惨事を把握せず大川小の状況についての報告文書5枚。2011年3月11日以降、厳密な意味での「報告」はこれだけだった。
Photo by Masaki Ikegami
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 驚いたことに、2011年3月11日以降、今年7月27日に至るまで、石巻市立大川小学校の状況について上がってきていた資料は、わずかA4版で7枚(文科省作成資料1枚を含む)だけだった。

 そのうち、昨年の12月までの資料は、3枚。しかも、1枚は“開示資料”ではなく、同市教委が昨年6月4日付で作成した【報道用資料】だった(すでに市教委で公表済み)。つまり、厳密な意味での「報告」は、昨年、2枚だけだったことになる。

 この2枚の文書は、『東日本大震災における石巻市立大川小学校の被災事故について』というタイトルで、作成者は「宮城県教育庁義務教育課」とある。しかし、なぜか作成日や文科省への提出日が記されていない。

 文書には、こう記されている。

<発生日時 平成23年3月11日(金)午後3時37分>

<発生場所 石巻市立大川小学校から新北上大橋へ向かう途中(石巻市釜谷字山根付近)>

<事故の概要

3月11日午後2時46分頃、東北地方太平洋沖地震が発生した。教職員は児童に避難の指示を出して校庭へ誘導した。同校は避難場所となっていたことから地区の住民も校庭に集まってきた。

津波到来の恐れがあったため、教頭は校庭に避難してきた地域住民とともに相談し、高台になっている新北上大橋と県道が交差する地点へ避難することとした。その際、学校の裏手にある山も避難場所として検討したが、余震によるがけ崩れや倒木の危険があるため、避難所として適さないと判断した。避難場所へ移動中に津波が到来し、多くの児童と教職員が巻き込まれた(以下略)>