証券会社は、個人の資金運用にも、企業の資金調達にも、重要な役割を果たしている。このことに、疑いの余地はない。

 しかし、個々の証券会社は決して安泰とはいえない。米国では、「ウォール街の帝王」とうたわれたかつてのソロモン・ブラザーズが一つの不祥事をきっかけに凋落したし、業界4位だったリーマン・ブラザーズが破綻した。日本でも、かつての名門で業界4位だった山一證券がつぶれた。また、業界最大手の野村證券は、業績と株価の低迷に加えて、増資インサイダー問題の責任を取る形で、先頃、渡部賢一・野村ホールディングスCEOの辞任に至った。

 筆者は、1980年代後半に、証券ではなく投信だが、野村に2年、山一證券には同社最後の2年間に在職した。日本の大手証券の最盛期と力尽きるときの二つの時期を内側から見ていた。

 最後にはバブルのピークに至る80年代後半は野村のいわば全盛期だった。同社の強みは何だったのか。野村證券には、「ペロ(売買伝票のこと)で語れ」「数字は人格である」といった言葉があり、稼いだ数字がない社員は人間と認めないというくらいの強い信賞必罰の文化があった。営業マンは常に高い営業目標を課されて、「詰め」られて、お互いに助け合い、社員同志の結束は固かった。この点には、成果がすべて個人のボーナスと結び付けて考えられるような米国の投資銀行式でないことのよさがあったかもしれない。ただ、世界的に米国式が浸透した今、かつてと同じ経営は、不可能だといわぬまでも難しかろう。

 また、野村は、頭脳派は頭脳で、体力派は徹底的に体力で、と当時の銀行のような過剰なゼネラリスト志向を廃し、長所を生かして社員を使っていた。当時、証券は最大手の野村といえども、第一級に優秀な人材が集まる業界ではなかったが、人使いがうまかった。

 一方、山一證券は、よくも悪くも家庭的な、証券会社にしては居心地のいい会社だった。相対的に見て迫力には乏しかった。同社は、不正な損失隠し(いわゆる「飛ばし」)の発覚で自主廃業に至るが、あえて言うが、野村並みにもうけていれば、あの段階でつぶれることはなかったはずだ。ただ、「紳士的」といわれた証券会社らしくない社風が幸いしてか、山一OBはその後の就職先でよく組織に溶け込んで活躍している。