ジョージ・イーストマン ジョージ・イーストマン(1854~1932)は写真の大衆化を果たしたアメリカの産業資本家だ。イーストマンが参入する以前、写真撮影は一部の専門家だけに許された狭い世界にとどまっていた。扱いのやっかいな機材を理解し使いこなせて初めて、やっとささやかな写真が撮れる、というしろものだったからだ。イーストマンはこのような写真撮影のプロセスを簡略化し、誰にでも楽しめるものにした。

 イーストマンは、革新的な技術の開発に携わる一方、自分の会社イーストマン・コダック社では進歩的な経営にもすぐれた力を発揮している。それは当時としては、はるかに時代の先を行く経営だった。彼の指導のもと、その写真王国は、アシスタントが1人だけという設立当初の規模から、1万3000人の従業員をかかえるまでに成長した。オフィスの規模でいえば、発足当初の小部屋1つから、現在はニューヨーク州ロチェスターで約22万平方メートルの敷地に展開する、95棟のコダック・パーク・ワークスにまで拡大している。

成功への階段

 イーストマンは3人きょうだいの末っ子としてウォータービルで生まれた。ニューヨーク州北部ウティカの南西約30キロにある村だ。5歳のとき、家族がロチェスターに引っ越した。父親が初めて商業学校の構想を考え出し、ロチェスターにイーストマン商業学校を設立したためだ。不幸にも、父の急死で学校は頓挫、イーストマン一家は苦しい生活を余儀なくされた。

 14歳で学校を卒業すると、働いて家計を支えなければならなかった。保険会社に入社してしばらくたったころ、帰宅後に経理の勉強を始める。当時の週給5ドルを上回る仕事につけるようにしたかったからだ。1874年、保険会社に勤務し始めてから5年がたったとき、この努力が実を結び、ロチェスター貯蓄銀行でジュニアクラークの地位を手に入れた。週給は15ドル以上になった。

 イーストマンの人生を変える瞬間は、24歳のときにやってきた。サント・ドミンゴでの休暇の計画を立てていると、仲間の1人が、旅行の記録を写真に撮るように勧めた。イーストマンは当時最先端だった湿板技術による大きな図体の写真機材を購入していた。カメラ本体だけで21インチのコンピュータ用モニター並みの大きさがあり、これを三脚に取り付けて撮影する。この他にもガラス板、化学薬品類、ガラス製タンク、ガラス板ホルダー、現像用の道具などが必要だった。テントも持って行った。撮影直後、湿板の乳剤が乾燥しないうちに現像しなければならかったからだ。

 結局、サント・ドミンゴまで撮影機材を持って行きはしなかったものの、しだいに写真が頭から離れなくなり、乾板のプロセス技術の完成に没頭するようになる。乾板とは、表面を特殊なゼラチンの乳剤で覆った薄い板のことだ。ゼラチンの乳剤は、撮影後すぐに現像する必要のある湿板とは違い、乾いた状態でも感光する性能を持っていたため、いつでも好きなときに撮影ができた。イーストマンはイギリスの雑誌で見つけたこのアイデアに着目し、改善を加え、3年間実験を繰り返したのちの1880年、乾板そのものとその乾板を大量に生産する機械の両方の特許を取得した。そして銀行を辞め、1881年の初頭、ヘンリー・A・ストロングをパートナーに迎えることになる。