松下幸之助

 56歳になるまで祖国から一歩も外に出なかったにもかかわらず、松下幸之助(1894~1989)は世界に大きな影響を与えている。松下が働き始めたのは9歳のときだ。1918年には自分の会社、松下電気器具製作所(のちの松下電器産業株式会社)を設立。製品の革新と巧みなマーケティング、そして時代を先取りした経営とを有機的に結びつけながら、第2次世界大戦後の日本で、業界最大の企業を育て上げた。

 戦後、経営活動を制限されたつらい時期を乗り越え、松下幸之助は、1950年には会社の経営に完全に復帰した。独自の経営の価値観を浸透させ、松下電器を300以上の関連会社を擁する業界最大級の企業グループに変貌させている。

生いたち

 1894年、和歌山県の農村、和佐村に生まれる。8人兄弟の末っ子だった。父親は地元の小作人から年貢を得る地主で、家族は裕福な生活を送っていた。1898年、父が米相場に手を出したために生活に変化が起こる。米の投機が大失敗となり家計が破綻したからだ。家庭の事情が激変したために、松下は小学校に行けなくなってしまう。父の意思によって、わずか9歳で大阪の火鉢店に奉公に出た。その次には自転車店に奉公した。

 1910年、若い松下は大阪電灯会社で内線見習い工の仕事につく。松下は仕事の飲み込みが速く、16歳という若さにもかかわらず、その配線の腕前が認められ、速いペースで昇進を続けた。

 ところが1917年、大阪電灯を辞めて独立する決心をする。その理由の一部には自分の健康状態のこともあった。というのは、松下は慢性的に肺の調子がよくないことに苦しみ、勤務先の会社ではよく休暇を取っていたため、もし自分で会社を興せるのなら、思わしくない健康状態も何とかなると考えたからだ。そして同時に、自分で考案した改良ソケットを販売するつもりでもあった。実は、大阪電灯の経営者は松下の改良ソケットにほとんど興味を示さなかった。

成功への階段

 1918年、23歳のとき、松下電気器具製作所(1953年に松下電器産業株式会社となる)を設立する。

 従業員は3人、手元にあったのは改良ソケットのプロトタイプだった。

 創業当時は苦しかった。結局、最初のソケットはうまくいかなかった。しかし次の製品、「アタッチメントプラグ」は、とくに競争相手に比べて価格を3分の1安くしたこともあって、好調に売上げを伸ばした。もっとも、会社の経営が軌道に乗ったのはこの製品のおかげではなく、電池で点灯する自転車用ランプだった。このランプは電池で40時間点灯するという際立った性能を持っていた。これを部屋の照明に使った人もいた。