夏が終わり、すごしやすい季節になると街はおしゃれになる。着飾ることよりも涼しくすることに重点を置くときから、自由に着るものを楽しめる季節への移り変わりを実感できる。美人はこういう変化を思う存分楽しんでいるように思う。

 涼しくなったらあれを着たいとか、上に着るのはこういう感じとか、暑い頃から思っていたことを実現していく。

 大きな変化は長袖の頻度が上がることだ。袖が手首までやってくる。その袖口に注目したい。

 美人の袖口は美しい。衣服と肌との境界なのに主張しすぎない感じ。きれいな直線と曲線が、そこにはある。その美しさがなじむのだ。きちんとしている。そして、さりげない。注目されにくい部分をあえてつくる美学だ。その美学が「美人のもと」をつくる。

 そもそも袖口は、摩擦が多いため、汚れやすく、傷みやすい。工夫されてつくられているが、どうしてもダメージが集中する。そこを意識できているのか。

「美人のもと」が減っていく袖口をよく見かける。だらしない。ヘンな皺や汚れが集まっている。袖が長すぎたり、短すぎたりするのも「違和感」をつくってしまう。気になって目が行ってしまう。

 袖口がだらしない人は、袖口を触りすぎる。手を引っ込めて、指先で袖口を伸ばして、手首を返して、ペンギンの手にする。話しながら手を突っ込んで遊んだり、いじったり。両手の袖口を意味なく合わせたり、こすったり。どんどん袖口のさりげなさが失われていく。

 甘えっ子を演出する人は、たいていペンギンの手を揺らしながら困った顔をするのだが、それがほとんど失敗に終わってしまう。

 合掌するときがなんとも滑稽である。たとえば神社で手を合わせる時。神妙な場面にだらしないものが存在してしまう。誰かに協力してほしいとき、「お願い」と手を合わせてみても、どうもその「お願い」に力がない。

 普段注目しない袖口に注目してみよう。そこには「美人のもと」をつくる着方の縮図があるようだ。