明治維新直後、京都は衰退の瀬戸際にありました。蛤御門(はまぐりごもん)の変、鳥羽・伏見の戦いなど幕末の戦禍による荒廃に追い打ちをかけるように、東京遷都が決まったからです。天皇の御座所や政府機関を追って、公家や官吏、有力商人らも京都を去り、これらへの依存度が高かった京都経済は大打撃を受けました。人口も維新前の35万人から20万人近くへと急減しました。

槇村正直
(毎日新聞社/アフロ)

 事態を憂えた政府要人・木戸孝允は、腹心の槇村正直を京都へ派遣しました。槇村は1834(天保5)年、木戸と同じく長州藩に生まれ、幕末には密用方聞次役として、危険をかいくぐって藩と木戸の連絡役を務めました。この縁で信頼を得て、公家出身で政治経験に乏しい長谷信篤・初代京都府知事に代わり、実質的なリーダーとして京都復興に取り組んだのです。

 槇村は自らの意思をどこまでも貫くタイプで、京都を近代化・文明開化させるのに適任と目されていました。とはいえ、桃の節句や端午の節句を古い慣習だと禁止して京人形の職人や商人を困窮させたり、宇治平等院鳳凰堂を2000円で売りに出すなど行き過ぎた面もありました。鳳凰堂に買い手は付きませんでしたが。豪腕型リーダーは旧弊やしがらみの破壊にたけている一方、その先に何をつくり上げるかというビジョンが確立されないと迷走しがちです。この未来への青写真を描く役割を担ったのが、山本覚馬です。

山本覚馬の肖像画
(京都府議会所蔵)

 山本は1828(文政11)年、会津藩に生まれ、蘭学に精通していました。戊辰戦争には病のため失明していて参戦できず、京に残っていたところを捕らえられて京都薩摩藩邸に幽閉されました。この間、新しい国づくりへの具体案を示した意見書『管見』を牢内で口述筆記して薩摩藩に提出。「ものづくり」と「人づくり」が日本の未来を開くという識見に共感した西郷隆盛や岩倉具視の計らいで、山本は赦免され京都府顧問となりました。

 以後、槇村と山本は、日本初の小学校開校など革新的な京都近代化策を次々と打ち出していきます。特筆すべきは西洋科学技術センターともいうべき舎密(せいみ)局の開設です。ここから島津製作所創業者・島津源蔵が羽ばたき、伝統と最先端産業が共存する都市へと京都が発展する先鞭をつけました。

 槇村・山本コンビのありようから、リーダー一人が万能である必要はないとわかります。創業期のソニーやホンダもしかり。トップとナンバー2、引っ張っていく人と調整する人の役割分担が、大きな仕事を成し遂げるものだという証しが、現在の京都の姿です。

Maho Shibui
1971年生まれ。作家
(株)家計の総合相談センター顧問
94年立教大学経済学部経済学科卒業。
大手銀行、証券会社等を経て2000年に独立。
人材育成コンサルタントとして活躍。
12年、処女小説『ザ・ロスチャイルド』で、
第4回城山三郎経済小説大賞を受賞。 

 

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