小田急線、東急世田谷線が交差する豪徳寺の街は、世田谷の城下町に端を発する歴史の街である。町内に残る神社、都内でも珍しい城跡など、憧れの住宅地を多く抱える世田谷区の中にあって一種趣の異なる「古都」の風情がある。

世田谷の「古都」の風情

 住宅地として根強い人気を持つ小田急線沿線にあって、豪徳寺駅を中心とした街は一種独特の性格をもっている。この街は小田急線の沿線であるとともに、「世田谷のチンチン電車」東急世田谷線の駅を最寄り駅ともしている。この、世田谷区北部を東西に横断する一種レトロな鉄道は世田谷区の中でも特に古くからの街々をつないで走っていく。豪徳寺は、そうした、世田谷区の古い街の代表であると同時に、小田急線沿線のイメージを合わせもっているわけである。

豪徳寺「本堂」
豪徳寺「本堂」

 豪徳寺の名前の由来はもちろん、町内にある同名の寺による。15世紀にまでさかのぼる歴史をもつ古刹である。そしてこの寺は、当時、世田谷一帯を治めていた吉良家の居城、世田谷城の敷地の中にあった。現在の豪徳寺一帯は、この城の敷地、あるいは城下町であった。

 こうした歴史が、豪徳寺の住宅地に他の街とは違う趣をもたせている。都区部にあって緑の多い住宅地であることはもちろん、寺社の周辺、いまは公園となっている城跡の一部など、どこか鎌倉や京都のような落ち着いた風情を感じさせる場所が多い。ここは世田谷の「古都」といってもいいだろう。

14世紀、世田谷の中心地

 豪徳寺の一帯が街として成立する歴史は、14世紀頃に始まる。このころ、街の主人公であったのは源義家の血筋に連なる吉良家。あの「忠臣蔵」の吉良家とは遠い親戚筋に当たる。この吉良家が関東管領の足利基氏から世田谷区一帯を領地として与えられたのが、街としての始まりである。

 吉良家はこの地、現在の豪徳寺2丁目を中心として、自らの居城を建築した。世田谷城とも世田谷御所ともいわれたこの城の中心として、一帯は城下町として発展する。後に吉良家は小田原の北条家に接近、小田原、世田谷、江戸を結ぶ街道は、政治的な意味合いとともに物資が行き交う主要道路となった。

 世田谷城の城下町は、その集散地として栄えたのである。世田谷吉良家7代目の頼康の頃には現在の「世田谷ボロ市」の起源でもある楽市が開かれ、その繁栄は頂点に達した。15~16世紀にかけて、ここは江戸の副都心であったのだ。

 この繁栄は1590年、小田原北条家の滅亡によって一度は終る。城は廃され、2度と再建されることはなかった。現在その一部が城跡公園となっている。