1914年3月26日~31日、島村抱月率いる芸術座が帝国劇場で「復活」(レフ・トルストイ作、島村抱月訳)を上演、劇中歌の「カチューシャの唄」で松井須磨子は大スターになる(連載第34回)。三浦環はその2ヵ月後、5月10日に夫の医学者、三浦政太郎とともに留学のため、神戸からドイツへ旅立った。今回は世界的なオペラ歌手となった三浦環の最盛期から晩年まで。

2冊の「自伝」で三浦環の足跡をたどる

 欧米の演奏記録は三浦環(1884-1946)の自伝に記されている。自伝は2つ。環の自著である『歌劇お蝶夫人』(音楽世界社、1937)と、吉本明光が環に聞き書きした『三浦環のお蝶夫人』(音楽之友社、1955、初出・右文社、1947)だ。

 『歌劇お蝶夫人』は菊判(A5判)158ページの書物で、環による「蝶々夫人」の日本語訳が129ページ、残りは解説と渡欧後の記録となっている。1937(昭和12)年に音楽世界社から出版されている。音楽世界社は現在の音楽之友社の前身の一つだ。1941年の統制経済下、「第一次音楽雑誌統合令により、『音楽世界』『月刊楽譜』『音楽倶楽部』の3誌発行元が合併し、匿名組合音楽之社が設立」(音楽之友社ホームページ)された。

日本人初の世界的なオペラ歌手として活動した<br />三浦環20年間の最盛期をたどってみた『歌劇お蝶夫人』(音楽世界社、1937)の表紙

 『三浦環のお蝶夫人』は吉本明光が環にインタビューしてまとめたものだが、病床で書いた自筆の文章も収められている。他界の翌1947(昭和22)年に右文社が出版している。右文社は現存していないようだが詳細はわからない。筆者が所有しているのは1955年に音楽之友社が文庫判で復刻したものである。

 著者の吉本明光(1899-1960)は読売新聞社企画部長で、音楽評論家でもあった。新聞社の企画部は音楽会も主催するのでプロデューサーだったのだろう。環は山中湖に疎開していた時期に、東京で演奏会があると吉本の自宅に宿泊することもあったという。

 『三浦環のお蝶夫人』と『歌劇お蝶夫人』は、本人の言葉で語られているので信頼度が高いと思うが、環の「足取り」には諸説あり、じつは正確にはわからない。1910-20年代の通信やメディアは未発達で、記録はほとんど残っていないのである。以下、事績はこれらの自伝に依拠する。それによると――。

 1914年5月20日に神戸港を出港。7月9日にマルセイユ着。陸路ベルリンに着いたのは7月11日だった。政太郎はカイザー・インスティテュートに入った。環はリリー・レーマン(1848-1929)に師事するつもりだったが9月まで避暑で不在。ベルリンで待っていたが、7月25日にオーストリアがセルビアに宣戦布告し、第1次大戦が始まる。それぞれの同盟関係からドイツは8月2日にロシアに宣戦布告し、欧州は大混乱に陥る。同盟関係は錯綜し、けっきょく英仏露と独墺オスマンのあいだで大戦争となる。

 なお、カイザー・インスティテュートは現在のマックス・プランク研究所の前身で、複数の研究所を擁するドイツ最大の学術研究機関である。政太郎は訪問研究者として籍を置いたと思われる。リリー・レーマンはドイツを代表するソプラノ歌手で教育者だった。『私の歌唱法』(“Meine Gesangskunst”1902.)という著書もあり、日本でも出版されている(川口豊訳、シンフォニア、1991)。