自分の知らない間に世の中が進むように感じたときには、すでに時代から取り残されてずいぶん経っているといっていい。学歴に関する常識については、おそらく多くの社会人が取り残されて久しいのではないだろうか。

 まず頭に入れておきたいのは、「大卒」はもう十分な学歴ではないという点である。

 この件について、多くの人々は「そんなことはない」と内心、楽観的に見ているようだ。有名大学の出身者にその傾向が強く、高年齢ほどその度合いが強くなる。よほど学歴でいい目を見てきたのだろうが、その時代はほぼ終わっている。

目減りする
「大卒」という価値

 当の大学では、もはや「大卒」という言い方は死語に近い。「学部卒」というのが主流の用語で、その「学部」は大学院の下にある。一直線のヒエラルキーがはっきりとしているのである。

 特に、大学院重点化を進めた東大はじめ旧帝国大学にはその色合いが強い。もともと旧学制では予科の制度があった位だから、抵抗が少ないのだろう。すなわち事実上「最高学府」は研究機関の性質をもった大学院であり、学部はその下の教育機関である。もっとひらたくいえば、「大卒(学部卒)は昔の高卒にほぼ等しい」ということなのだ。

 学歴のインフレと揶揄される現象の実相はこれだ。かつて誇らしかった皆さんの学歴は、相当に価値が目減りしているのである。かつての「へえ、大卒なんですか」という尊敬は、「あ、学部卒なのですか」という無視に変る。旧・高学歴のステイタスとプライドで、はたして逃げ切れるだろうか。

 こういうことをあまりマスコミが書かないのには理由がある。マスコミの就職があまりに厳しいため、多くのジャーナリスト志望者は学部卒で就職せざるを得ない。優秀な学生ほど、みすみすマスコミ就職の内定を蹴ってまで大学院には行かずに就職するのである。そうした人間が記事を書いている。

 一方、日本のエリート像も長らく「学部卒」である理由があった。例えば、キャリア官僚の理想のコースは、東大法学部の在学中に司法試験と国家1種試験に受かり、旧大蔵省に就職する、というものであっただろう。大学院に進む晩成の大器より、常に早熟な俊英を青田刈りしてきたのである。