自作のドキュメンタリー映画『A』と『A2』の上映会は、今も時おり催される。回数としては年に数回。1998年と2001年の公開時には動員にとても苦労した(要するにまったく当たらなかった)作品だけど、まったく当たらなかったぶんだけ寿命は長い(何しろ観た人が少ないのだから)。

 上映の際には、できるだけその場にいるようにしている。なぜなら観客の反応や感想を知りたいからだ。

 いろいろ差異はあるけれど、テレビ番組と映画の最も大きな違いはここにある。テレビは一過性だ。人気番組の場合は放送後にDVDで販売されるなどの事例も多いけれど、ほとんどの番組は基本的には1回放送したらそこで終わり。

 でも映画は終わらない。観続けられる。いつまでも。だからもうひとつのテレビとの違いが現れる。観客たちがいるその場に、自分も身を置くことができることだ。

 その結果、作品は安定しない。絶えず揺さぶられる。

 もちろん作品そのものは変わらない。ただし視点が変わる。視点が変われば作品も変わる。

 視点が変わるその理由はいくつかあるけれど、最も大きいのは社会環境の変化だ。これによって意識が変わる。意識が変われば作品も変わる。吉本隆明的に書けば、自己幻想が共同幻想によって絶えず侵食される。

 映画だけではない。一過性で世界のどこかに消えてしまう電波媒体を除けば、写真や絵画、彫刻や小説、新聞や雑誌の建築など、あらゆる表現領域は揺さぶられ続ける。時代ともに評価が変わる。そんな例はいくらでもある。でも映画(映像)は他の表現領域に比べれば、並外れて情報量が多い。たった3分間のシーンでも、無限に色や形があり、しかも作品そのものの中に時間という要素まで含まれている。言い換えれば映像は、突出して際立った多面性を、最初からその身の内に充填させているということになる。

 この論をもう少し進めれば、だからこそ映像は誤読されることが多く(しかもテレビの場合、この影響力は圧倒的だ)、リテラシーが必要であるとの展開が可能ではあるけれど、今回はそっちにいかない。あくまでも僕自身の話だ。

 数カ月前、地方都市で『A』の上映会が行われた。上映会場は公共ホール。観客は年配の人が多かった。少し不思議だ。なぜなら『A』や『A2』は公開時に、この世代から最も敬遠されたからだ。

 ……などと書くと、また僻みが始まったと思われるかもしれない。でも事実だ。『A』と『A2』は、東京ではドキュメンタリー上映劇場として知られるBOX東中野(現在はポレポレ東中野)で公開された。やっぱり不入りだった。試写会ではあれほどにメディア各社が来てくれたのにと首をかしげながら劇場支配人は、「普段なら観に来てくれるはずの年配のドキュメンタリー・ファンが、この作品にはほとんど来てくれない」と僕に言った。

 「確かに相対的には若い世代が多いけれど、でもドキュメンタリーを観るコアな層である年配層から避けられたことで、結果としては動員が伸びない」

 この状況をプロデューサーの安岡卓治は、「オウムへの好奇心よりも、むしろ嫌悪や憎悪が勝ってしまったのだろうな」と分析した。確かにそれはあるだろう。そんな人たちに最も観てほしいのだけど、でも結局はそんな人たちは観に来ない。