東日本大震災で児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の惨事。これを巡り、児童の命を守る義務があった学校が事前の防災体制の不備や危険回避を怠ったなどとして、23人の児童の遺族19家族が、市や県を相手に国賠請求を求めた裁判の第4回弁論が4月24日、仙台地裁(高宮健二裁判長)で開かれた。(池上正樹、加藤順子)

拡大航空写真、周辺住民の証言で
ついに見えてきた津波襲来直前の様子

膠着する大川小裁判、<br />遺族と県・市の縮まらない距離市側が証拠として提出した大川小裏山の測量図 と航空写真を説明する遺族側の弁護士。助かった人たちが避難した3ルートを遺族側が指定した Photo by Yoriko Kato

 この日は、被告の石巻市から、原告側が「避難できた」と訴える裏山の3つのルートについての測量した図面7枚と拡大航空写真が提出された。

 それらの図面などによると、校舎から裏山へのルートのシイタケ栽培の跡地やコンクリートタタキの場所、学校近くの地蔵尊の裏のルートにも竹藪の広い空間があり、震災当時、生還住民らが焚火した跡があったことがわかった。また、津波の到達地域が図面上で特定されたことによって、「これらの場所まで逃げれば助かった」ことが明らかになった。

 原告側弁護団によると、航空写真には、シイタケ栽培の逃げる道のところに車が止まっていて、車が駐車できるほどのなだらかな場所であったことが特定でき、さらに当時、サイレンを鳴らした行政無線も写っていたという。

 そして、3つのルートを断面図に置き換えると、なだらかな傾斜になったため、「避難はいとも容易にできた。30秒もあればできた」(原告側弁護団)としている。

 さらに、事実経過をまとめていく過程で、当日、小学校周辺にいた人たちの証言によって、(津波に襲われる約7分前の)15時30分前後の様子が、かなり具体的に証拠としてまとめられたという。