時にあっけにとられるほど弱々しく崩れさり、時に信じられないくらい逞しく危機を乗り越える――。予測不可能に陥った21世紀の経済に対して、経済学はまだ有効か?
学問から実業まで飛び回るエコノミストにして「ネットワーク理論」を経済学に持ち込んだ第一人者ポール・オームロッドの新著『経済は「予想外のつながり」で動く』。インセンティブを、合理的経済人を、効用を、そして経済学そのものをネットワーク理論でアップデートする野心的な本作から、刺激的なトピックを抜粋してご紹介する特別連載が登場。第1回は、本書の訳者、望月衛氏による「イントロダクション」をお送りする。

経済学の「標準理論」は、果たしてまだ使えるのか?
――異色の経済学者とネットワーク理論の出合い

ネットワークという言葉は久しく前から日本語でもよく使われているし、それこそ人の社会ができてからずっとあった概念なんじゃないだろうか。ソーシャル・ネットワークといえばいまどきはSNSを指す言葉になってしまっているけれど、社会的ネットワークとか「ネットワークづくり」とかという使い方は、もちろんインターネットなんかよりもずっと前からある。本書はそんなネットワーク、とくに社会・経済におけるネットワークを題材にした本だ

 本書の著者、ポール・オームロッドは、大学教授やコンサルティングの仕事をしながら、長年、経済学の標準理論を批判してきた人である。経歴を見ると、ケンブリッジ、オックスフォードで経済学を学び、経済予測を生業としていた。そのことからも、彼が現実の経済を分析する道具としての経済学に不満を抱いた結果が一連の著作なのだとわかる。要は、彼が学んだ経済学では予測がうまくいかなかったんだろう。

 オームロッドの批判の方向性は一貫している。「合理的経済人」をはじめとする仮定が現実とは違っていて、そのために理論から導き出される結論もあやしくなっている。だから、現実に合わせた新しい仮定とそれに基づく新しいモデルを作って、政策や戦略を考えよう、というものだ。

 オームロッドが提唱する「新しいモデル」は、時の流れとともに発展する研究の成果を取り込んで変化しているように思う。最初の本、『経済学は死んだ』は大部分が標準理論の問題点を検討する内容であり、経済予測の仕事をしながら感じていたであろう疑問がデータに裏づけられる形で示されている。この段階では、まだ新しい枠組みと言えるほどのものは提示されていない。

 次の本、『バタフライ・エコノミクス』では(バタフライと言いながら)アリの行動に関する研究を喩えに使い、「アマゾンの奥地(あるいは北京)で蝶が翅をパタパタやったせいで、テキサス(なりニューヨークなり)でハリケーンが起きる」、力学系のいわゆるバタフライ効果に着目した複雑系理論を用いている。バタフライ効果は、気象学者のエドワード・ローレンツが、小さく局所的な変化が遠くに影響を及ぼすなら、気象の長期予測は難しい、ということを説明するのに使ったたとえが元であり、映画やテレビ番組にも出てくるぐらいよく知られた概念だ。誰でも1度ぐらいは聞いたことがあるんじゃないだろうか。

 そして本書、『経済は「予想外のつながり」で動く』(原題 Positive Linking)でオームロッドが持ち出しているのはネットワーク理論である。バタフライ効果の延長線でいうならこうなる。アマゾンの蝶の羽ばたきみたいな小さなことが原因で東京にハリケーンみたいな大きな現象が起きることがあるわけだが、でもいつも起きるとは限らないし、そもそも東京で起きるのはなぜかを考えないと、現実を扱う学問としては「使えない」。そのメカニズムを考えたのが今回の本であり、彼の答えは、ネットワーク効果が働いているから、である。

 オームロッドのかねてからの主張に、経済学は19世紀の物理学を真似するのは止めて、もっと最近の、それも生物学に倣ったほうがいいのではないか、というものがある。経済が物理法則に従う世界より生物の体に近いという考え方は、それこそ19世紀からあって、その点はオームロッドも書いている。生物の体を、ノード(点)とそれを結びつけるネットワークで把握し、ノードに刺激を与えることで体がどんな反応を示すかを研究し、さらにそれを利用して体に思ったような影響を与えたり体を管理したりする、という考え方は、おそらく一定の年齢以上の人たちには馴染みがあるはずだ:「経絡秘孔を突いた。お前の命はあと3秒」

 そんな1980年代には一般に広まっていた考え方の枠組みは、だから、ぼくたちが直感的にか意識的にか、すでに使っているものだ。本書はそんな現実を、整理整頓した形で説明し、解釈したものである。