私立浅川学園に進学した夢は、ある日一冊の本を拾います。その本の名は『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』。なんでも、新しく赴任してきた北条文乃先生が、学生時代に「岩崎夏海」というペンネームで書いたものだといいます。
それを読んだ夢は、友人の真実からこう告げられます。
「私も、野球部のマネージャーになろうと思って」
それで夢は、びっくり仰天。なぜなら、浅川学園には野球部がなかったからです。

「野球部って、ほんとにあったんですね!」

 すると真実は、不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「……それがね、あるのよ」
「えっ!」
「うちの高校には『幻の野球部』が存在するの」

 浅川学園は、男女共学の私立高校である。生徒数は全校で八〇〇人弱。創設は五〇年ほど前の昭和半ば、高度経済成長期の真っ只中で、多摩地区がニュータウンとして整備され、多くの住人が移り住んできた時代だった。
 そこで、最初は学校の施策としてスポーツが振興された。それを宣伝材料に、生徒の獲得を図ろうとしたのである。特に、人気の野球部には力が入れられた。他校から名のある指導者を招聘し、特待生制度も早くから導入した。
 そうして創立五年目で、念願の甲子園初出場を果たす。その後も春に一度、夏に一度、計三度の甲子園出場を果たした。
 ところがその後、勝てなくなる。ちょうどこの頃、東京都の高校は数が増えるのに従って野球のレベルも上がっていった。次から次へと強豪校が生まれ、ベストエイトに勝ち残るのも困難になった。東京の代表校が甲子園で優勝するようになったのは、この頃のことである。
 すると野球部は、いつしか浅川学園にとってお荷物のような存在となってしまった。他の部に比べて優遇されているにもかかわらず、それに見合うだけの結果を残せていなかった。それで自然、部や監督への風当たりも強くなった。
 そのストレスが溜まったのか、やがて監督が不祥事を起こす。指導という名のもと、部員に暴力を振るい、訴えられたのだ。
 そのときは、野球部そのものも乱れていて、部員たちも立て続けに問題を起こした。校則違反はもちろん、犯罪で捕まった生徒もいた。
 そのため、監督が起訴された後、高野連からは一年間の対外試合禁止を申し渡された。
 これをきっかけに、学校は野球部の休部を決める。経費がかさむ割には甲子園に出られず、逆に問題ばかり起こすお荷物部を存続させる積極的な理由が見つからなかったのだ。廃部としなかったのは、あまりことを荒立てたくなかったからに過ぎない。
 そうして野球部は、なし崩し的に消滅した。一九九〇年代初頭のことである。以来、実に四半世紀にわたって休部が続いていた。
 だから、夢にとっては生まれる前から休部していたことになる。そのため、野球部がないと思うのも無理はなかった。
 そんな夢に対し、真実が言った。
「夢は知らない? ほら、あのモノレールに乗って多摩センターに行く途中、山の斜面のところにでっかく『浅川学園』って古びた看板が出ているの」
「あ、知ってる。明星大学の手前のところでしょ」
「実は、あそこが野球部のグラウンドなんだ」
「え! そうなの?」
「うん。あそこも学校の所有地で、部員は、前はあそこまで徒歩で通ってたんだって」
「ずいぶん遠いのね。しかも山の上だし」
「そう。だから『地獄の山登り』っていわれてたみたい。それがイヤでサボる部員も多かったそうよ」
「へえ」
「でも、今はモノレールができたからアクセスは楽になったんだ。ただ、逆に野球部がなくなっちゃったんで、やっぱり誰も行ってないけど」
「真実はなんでそんなこと知ってるの?」
「それはね、ある人に教えてもらったからよ」
「ある人──って誰?」
「それは……」と言ったとき、真実は何かを思いついた顔になった。それから、夢にこう言った。「あ、じゃあ今からその人に会いに行こうか!」
 そうして、さっさと教室を飛び出していった。
 それで夢も、慌ててその後を追いかけた。