人間の「破れ」、世界の「不条理」を乗り越えるものが宗教だと述べてきました。それは認識の問題ではなく、事実・実体の問題です。普通は、この両者の区別がつきません。恐らく、人間の歴史を通じて、この認識と実体の異同、関連、認識から実体への成熟等の問題は宗教、哲学、教育等の中に形を変えて綿々と存在し続けて来たように思われます。今回はここを整理したいと思います。

 認識というレベルは宗教の初歩の初歩で、いわばレストランのメニューを眺めているようなものです。そこには実体――真の解決――はありません。認識のレベルには解脱も悟りも涅槃もあり、天国も贖罪も救済もあるのですが、それを自分の中に実現しない限り、問題を解決したことにはなりません。ここが認識アプローチには見えないのです。認識しているから実現していると錯覚する。

 仏教は最初から実体に迫るという方法論をとっています。身体にわからせる。解脱という言葉、修行という言葉が、文字通りそれです。そのための特筆すべき方法論がバラモン教由来の坐禅でした。個人的な見解ですが、この実体を「境涯」という言葉で表せば結論にかなり近づくと思われます。

 キリスト教はそのような修行という方法論はとりません。真理の啓示、そして、受容と信仰という方法論をとります。

 このためもあってか、使徒パウロがその書簡の中で救済の真理を説明する際に、認識レベルの説明に偏っていると受け止められかねない表現(注)をし、事実、この点について、ユダヤ教の思想家マルチン・ブーバーは「事実を真理と認める信仰」と「神との信頼関係の中に入る信仰」とは質が異なり、前者においては信仰が認識レベルにとどまってしまうと指摘しました。微妙な指摘です。

 キリスト教において実体化の問題は、罪に侵された人間性を「聖霊」の導きの中で反省懺悔を繰り返しつつ、いわば鋳直されるという方法論をとります。

 さて、キリスト教と仏教、ざっくり言えば、どちらが現実に即しているでしょうか。これはなかなか難しい問題です。

 とは言いつつも、実体化の問題はキリスト教、仏教を問わぬ宗教のいわば関ヶ原で、ここを深掘りしないで、行動や生活に展開していけば、いずれの方法論であれ、形式主義――本質蒸発の道徳・宗教生活、すなわち偽善――に陥る危険性が大きくなります。

 結論を言えば、これは、人間の根源的な出発地点と究極の到着点を見出せるか否かにかかっているように思います。根源的な出発地点とは「信」、究極の到達点とは「境涯の変化」です。これに関して、以下、四点述べます。

 第一は、「信」こそは見えざる宇宙に通用する唯一の通信手段なのです。宇宙唯一の公用語と言い換えても良い。したがって、人間は「信」という沈黙の言語で見えざる宇宙と語るのです。ここで得られるものが事実、実体として人間に蓄積されるのです。

 仏教でもキリスト教でも、この「信」を最重要のものと位置づけるのは、そういうことだからです。

 余談ながら、仏教の中に「大信根、大疑団、大勇猛心」という信仰の3要諦があります。修行を完成させる三つの要素を示したものですが、最初に「大信根」、「信」があげられています。

 第二に、しかもこの「信」は、応用問題の地平で自己に解放が実現するのを待ち望むことです。言い換えれば、「信」とは認識レベルの話ではなく、自分の、あくまでも自分の問題解決という実存レベルの話なのです。それを「信じて」待ち望む。この「信じて」が「信じる」となり、「信仰」となりました。「信」とは一般的認識のレベルではなく、個別具体的な話なのです。

 第三は、宇宙は愛というエネルギーを本質としており――愛が嫌なら、慈悲でも真実でもまごころでも構いません――、そのエネルギーを人間は「信」という手段によって受け止めることができる。これは「認識」によっては経験不可能な、いわば実存的経験です。「信」はそのような帰結を人間にもたらします。ここが自己超越の突破口になります。

 第四に、このようなプロセスを通して、人間に「境涯の変化」が生じます。「境涯」、即ち自分の住んでいる世界が変わること、暖かな世界、明るい世界、穏やかな世界、平和の世界。人間がこのような明るい世界に出ていなければ、何を語っても無駄なのです。なぜなら、「境涯の変化」こそが、人間が自己超越の世界に生きている証しだからです。

 結論です。それ故に「信」という根源的な出発点を得て、「境涯の変化」という到達点に至れば、それが自己超越の世界に入ったということなのです。

(注)
  恐らく、以下のような聖書の箇所とこれを平面的に受け止めて展開したキリスト教神学のあり方がブーバーの批判を引き起こしたものと思われます。「もし、あなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音の言葉をしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現れたことです」(コリント人への第一の手紙15-2~5)。
 しかし、この箇所は、人生のあらゆる局面で宗教の真理を反芻しながら生きてゆけとの勧めであるので、ブーバーの批判は必ずしも当たらないと思われます。