人は、苦しい状況にあるとき、背を向けて逃げたくなるものです。しかし、追いつめられたときこそ、敵の中枢に「活路」があるのです。世界史5000年の歴史から編まれた『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。

「鬼島津」の異名をとる男、
島津義弘(よしひろ)

 時は、慶長5年(1600年)9月15日。所は、濃尾(のうび)平野と琵琶湖を結ぶ、南北を山岳に挟まれた隘路、関ヶ原。ここに両軍あわせて20万もの大軍が結集し、「天下分け目の合戦」の幕が切って落とされました。

 布陣は明らかに東軍に不利。明治になって軍事教官としてやってきたクレメンス・ヴィルヘルム・メッケル少佐は、関ヶ原の布陣図を見て、言下に「西軍の勝ち!」と断じたと言われています。

 霧が薄くなった朝8時ごろに合戦が始まり、正午ごろまでは均衡を保っていましたが、小早川秀秋の裏切りを境に一気にバランスが崩れ、まもなく西軍は総崩れとなります。気がつけば、島津隊だけが敵大軍に三方から包囲され、もはや風前の灯火。このとき島津隊を率いていた大将が島津義弘です。

継戦か、撤退か

 彼は二者択一の大きな決断を迫られます。
「継戦か、撤退か」

 戦を放棄して撤退するならば、東から殺到する東軍を前にして「西」へ向かうことになります。あくまで討ち死に覚悟で突撃するならば、「東」へ向かうことになります。しかし、もはや大勢決した中で討ち死にするは、まさに犬死に。

 かといって、撤退を選ぶにしても、背を向けた軍ほど弱いものはなく、10万の軍に追撃されれば全滅の危険性が極めて高い。戦わずしてむざむざやられるくらいなら、戦って一矢でも二矢でも報いて、「薩摩隼人」の意地を見せつけて散ったほうが……という想いにも駆られます。

「押しても駄目なら引いてみよ」とは言っても、今回はまさに「押しても全滅、退いても全滅」という状況です。

軍神、島津義弘に学ぶ成功哲学。<br />苦しいときこそ、敵の“強点”をつけ!「もうダメだ」。そんな絶望的状況だからこそ効く、有効な打ち手とは?

苦しいときこそ、「第三の選択肢」を模索

 このとき二者択一の決断を迫られた島津義弘は「第三の選択肢」を採ります。彼は立ち上がって叫びます。

「我が軍の周りで、最も強敵の部隊はどこか!?」
「もちろん、東正面の家康本陣です!」

「よし! ではこれより我が隊は東の家康本陣に向けて撤退する!」

「西に向けて撤退」でも「東に向けて突撃」でもありません。
「東に向けて撤退!」と叫んだのです。

平時においては敵の弱点を突き、
窮時においては敵の強点を攻む。

 今まさに敵軍が殺到してくる「東」に向かって全滅覚悟の突撃をかけるというのならわかりますが、「撤退する」というのですから、およそ正気の沙汰とは思えません。

 そもそも、これは兵法に悖(もと)っているように見えます。孫子の兵法では、次のように教えています。

「敵の守らざる所、あるいはその不備を攻めよ」。

 しかし、これは「一般論」です。こちらに余裕があるときはこれが定石ですが、追いつめられるだけ追いつめられたときは、むしろ敵の最も強いところを攻めることで、活路が見出されることがあるのです。

 人は、圧倒的劣勢にあるとき、どうしても敵に背を向けて逃げたくなりますが、背を向けた途端、その無防備となった背中をばっさり袈裟懸けされてしまいます。むしろ逆なのです。追いつめられたときには、敵の中枢にこそ“活路”があるのです。

 通常なら自殺行為ですが、優劣に圧倒的な差があるときというのは、敵も油断しています。その油断を突くことで、わずかなチャンスが生まれるのです。

 関ヶ原でも、「勝ち」を確信して軍規がゆるみ始めていたところに、突如島津隊が突進してきたため、東軍は狼狽し、島津隊を中心に真っ二つに割れる陣形となります。そのわずかに空いた穴を突ききって、そのまま南東へと“撤退”することが可能になったのでした。

退路は「前」にあり!

 後ろではありません。事実、後ろ(西)へ逃亡を図った(事実上の)総大将石田三成はあっけなく捕らえられ、処刑されています。後ろに退くのはむしろ「まだ余裕があるとき」だけだということを肝に銘じておかなければなりません。