「1位に3点、2位に2点、3位に1点」のように配点する「ボルダルール」ならば、多数決の欠陥である「票の割れ」を防げる(第7回)。
しかし、有権者の意思をうまく反映すれば、優れた結果を出すわけではない。『「決め方」の経済学』の著者、坂井豊貴氏によれば、アメリカのリンカーン大統領は、ボルダルールでは勝てなかったと指摘する。
(新刊『「決め方」の経済学』)より、一部を特別に公開します)

アフリカ系アメリカ人が投票権を持つ
きっかけになった奴隷解放宣言

多数決に欠陥があったからリンカーンは勝った

 投票権というものは、人間社会に当然のごとく備わっているものではない。日本で初めて選挙が行われたのは、大日本帝国憲法が発布された翌年の1890年だ。そのときは高所得で25歳以上の男子しか投票できなかった。

 その後、大正デモクラシーを経て1925年に、所得に関係なく、25歳以上の男子が投票できるようになった。20歳以上の国民が性別に関係なく投票できるようになったのは、敗戦後の1945年だ。2016年にその年齢が18歳へと引き下げられた。

 アメリカだと、すべてのアフリカ系アメリカ人が投票権を持てたのは1965年、投票権法の成立によるものだ。それまでも1870年の合衆国憲法の修正第15条が、投票権の付与に肌の色を条件としてはならないと定めていたが、識字テストや投票税などの条件で、有色人種である多くの人たちは投票から実質的に締め出されていた。憲法の要求が実質化するまで、およそ1世紀を要したわけだ。

 そしてこの1870年の憲法の修正は、リンカーン大統領による1863年の奴隷解放宣言を大きな端緒としている。それまで、建国以前からアメリカの多くの州では、アフリカ人やその子孫を奴隷とするのが合法だったのだ。

歴代大統領の中でもっとも
尊敬されているリンカーン

 奴隷解放宣言の歴史的意義は高く、今もリンカーンは深く尊敬されている。2015年に新聞ワシントン・ポストが、アメリカ政治科学会の会長経験者など163名を対象に歴代大統領への評価を調査したところ、1位はリンカーンであった。初代大統領のワシントンを2位に抑えての1位だ(注1)。

 リンカーンは「奴隷解放の父」と称される。だが彼が勝った大統領選が行われた1860年には、南部諸州で人口の3分の1を超していた奴隷は、投票権を持っていなかった。奴隷解放を呼びかけるリンカーンが大統領選で勝ったのは、当たり前のことではない

 1860年当時、アメリカでは二大政党制がまだ確立しておらず、大統領選には4人の主要な候補がいた。全米の有権者からの一般投票数が多かった順に名前をあげると、共和党のリンカーン、北部民主党のダグラス、南部民主党のブレッキンリッジ、立憲連合党のベルだ。

 これら4人のうち奴隷制に否定的だったのはリンカーンのみ。彼の最大のライバルは奴隷制に肯定的なダグラスだった。

 アメリカの大統領選は、各州で有権者が多数決をする。そこで1位になった大統領候補が、その州が推す候補になり、人口にほぼ比例的に分配されているその州の「持ち点」を総取りする(総取りでない例外はメイン州とネブラスカ州のみ)。僅差だろうが大差だろうが1位が総取りして、そうした持ち点の合計が、候補の総得点となる。

 リンカーンは、奴隷制に否定的な北部の州では僅差で勝ち、奴隷制に肯定的な南部の州では大差で負ける傾向があった。リンカーンの獲得したアメリカ国民全体での一般投票数の割合は40%に満たない。次の2つの推測は妥当なものだろう。

(1)ブレッキンリッジは、ダグラスよりさらに強く奴隷制を肯定していたので、両者のあいだで票の割れはあった
(2)リンカーンのみが奴隷制に否定的な候補だったので、奴隷制を肯定する有権者にとっては、4人のなかでリンカーンは下位にあった

注1 The Washington Post, February 16, 2015