17歳の女子高生・児嶋アリサはアルバイトの帰り道、「哲学の道」で哲学者・ニーチェと出会います。
3日後、ニーチェは鴨川にアリサを連れ出し、水切りをしながら、こう語るのでした。
「アリサにも超人になってもらいたい。そのために私はこの世界にいるのだ」
ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ショーペンハウアー、ハイデガー、ヤスパースなど、哲学の偉人たちがぞくぞくと現代的風貌となって京都に現れ、アリサに、“哲学する“とは何か、を教えていく感動の哲学エンタメ小説『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』。今回は、先読み版の第11回めです。

「超人?なんかそれ前から言っているよね。どういう意味?スーパーマンってこと?」

「私が欲したって思うって、自分が好きで怪我したって思えってこと?」

「そうだ、私が望んで欲したと思ってみるのだ」

「うーんそれはさすがに、ちょっと無理じゃない?
 だって原因が自分にあるとは思えないよ。事故みたいなもんだもん。いろんな環境によって、辛いことって起こるものでしょ。例えばさ、事故の他にリストラとかもそうだよね。それは自分が欲したからだ。とはさすがに思うのは酷じゃないかな……」

「では、アリサは、自分のせいではない環境に振り回されて、事故やリストラに遭ったら、一生それを悔やんで生きるのか?
  “あの時、あんな目に遭わなければ、いま頃幸せだったのに”と」

「うん……。現実的に考えたらそうなってしまうと思うよ。怪我さえなければ、私はまだ陸上部にいたし」

「アリサ、たしかにそう思うのが通常な反応だろう。
 しかし私が言いたいのは、それでも、“自分が欲したんだ”と思ってみるということだ。
 例えば、辛いことがあったとしよう。“あの時こんなことさえ起こらなかったら”と過去を振り返りつづけるということは一生“たられば”に縛られて生きるということだ。
 過去に起こった辛いことに縛られ、自分の人生を無気力にやり過ごすことは簡単に出来るが、私はこう思いたい。
 辛い経験と共に、感じられる喜びもあり、それこそ“自分の人生”そのものだと」

「自分の人生、そのもの……?」

「そうだ。辛いことがあり、仮にそれが何度も繰り返されようとも、それでも『生まれ変わるのならば、また自分でありたい、そっくりそのままリピート再生したい』と思えるような生き方をすることだ。
 辛いことがあり、その中に喜びがあるのなら、その喜びを大切に受け止め、たとえ辛いことがあろうとも、喜びも感じることが出来た、自分の人生でよかった。またこのような人生を送りたいな、と誇れる生き方をすることが大切だと私は考えるのだ」

「うん、ニーチェの言っていることはたしかに素晴らしいよ、そう思えたらいいな。と私も思うし。けど、現実的じゃないというか、難しすぎるんじゃないかな。現に私は怪我のせいで陸上をやめたし。ニーチェの考えは理想的ではあるけど、そんな風にはなかなか思えないものだよ」

「アリサよ……」

「ね、難しすぎるでしょ、綺麗事というか」

「……だから私は、“超人”を目指すほかないと考えている。そして、アリサにも超人になってもらいたい。そのために私はこの世界にいるのだ」