発売から3ヵ月で約7万部のベストセラーとなった『自分の時間を取り戻そう』。生産性をテーマとした同書には、個人の働き方の提言に加えてもう1つ、社会派ブロガーの著者ならではの興味深い社会分析があります。3回にわけて、「社会の高生産性シフト」についての解説部分を紹介するシリーズの第2回です。

学校教育がダメダメな理由

 私はツイッターやブログで、学校教育についてよく批判をしているのですが、これも「学校は学びの場としてあまりに生産性が低い」と考えているからです。

 興味深いのは、この意見に反論してくる人の大半が、「とはいえ今でも学校教育には価値がある」とか、「私はこういうことを学校で学んで、それが社会に出てから役立った。だから学校には価値がある」と言ってくることです。

 この反論と、私の意見の違いがおわかりになるでしょうか?

 実は反論はすべて「学校教育の価値はゼロより上である」という意見なのです。私はそれに反対するつもりはありません。学校教育の価値は、間違いなくゼロより上だと思います。でも私の主張の元になっているのは、その価値を得るために投入される希少資源と得られた価値の比率、つまり生産性なのです。

 正確に言えば私の主張は「学校での学びは、学びの生産性が他の選択肢に比べてとても低い。だから無理して行く必要はない」というものです。価値がゼロより上だと言われても、それだけで無条件に自分の時間やお金を投入したいとは思えません。他にもっと生産性の高い学びの方法はないのか、そう考えてしまうからです。

 時間もお金も有限かつ貴重なので、十分に報われると思えることに使いたい=お金や時間の生産性を最大限に高めたい。そう考えたとき、学びの場として今の学校の生産性はあまりにも低く見えます。

 最大の理由は、個々人の理解レベルにまったく合わないペースで教えられているからでしょう。最低でも30人の生徒がいる教室では、一番よくわかっている子も一番わかっていない子も、自分の時間を有効活用できていません。

 おそらく時間が有効活用できているのは、真ん中の10人ほどではないでしょうか。しかもその10人も、英語の授業時間は有効活用できているけれど、物理の授業ではまったく無駄に人生の時間を使っていたりするのです。

 学校しか学ぶ場がなかった時代には、それでもみんな学校に行くしかありませんでした。Uberがない時代にはタクシーを使わざるをえないのと同じです。タクシーの価値は確実にゼロより上であり、とてもありがたいサービスです。でもUberが出てきて生産性の比較になったら、まったく太刀打ちできません。

 これからは学校も、新たに現れるさまざまな学びの場と「学びの生産性」という観点から比較され始めます。そしてその生産性が低ければ、今と同じ形で残り続けることはできません。

 学校というのはお金もかかりますが、なにより時間がかかることが大きな問題です。個人的な感覚では、大学が今4年間かけて教えていることは、生産性を上げれば1年くらいで教えられます。もしくは4年もかけるなら、今の4倍くらい価値あることが教えられるはずです。

 そもそも何十年も前の、紙と鉛筆しかなかった時代に4年かけて教えていたことを、今でも4年かけて教えているなんて、あまりに進歩がなさすぎると思いませんか?もし4年分を1年で教えてもらえたら、時間だけでなく費用も1年分ですむのです。

 現在の状態では、学校の生産性は私の期待値と比べて少なくとも4倍は低い。だから私はその存在意義に疑問をぶつけているのです。

学校教育がダメな理由と、<br />「学校には価値がある」という主張が無意味なわけ

 このように、ある人が「生産性という観点から意味があるかどうか」を語っているのに対し、それに反論する人は「価値がゼロより上かどうか」だけに注目している、ということはよくあります。

 たとえば公共工事をどう考えるか。私も含め公共工事に批判的な人の多くは、今の公共工事の生産性があまりに低いと感じているため、その分野に貴重な資源を投入しすぎるのは止めようと言っています。

 日本が焼け野原になった戦後に道路や鉄道を整備し、ダムを造って水と電気を確保し、学校や病院を誰でも利用できるようあちこちに作った――こういう時代には、公共事業の生産性は非常に高かったのです。

 しかし、低成長時代に入ってからも作られ続けたガラガラの地方美術館、ヒマな人しか訪れない温泉施設、交通量の極めて少ない立派すぎる高速道路などの生産性は、あまりに低すぎます。それらが生み出している成果が、投入資源に比べて小さすぎるのです。貴重な資源がちゃんと有効に活用されていたなら、公共工事に反対する理由はありません。官主導や公共工事が嫌いな人の多くは、その生産性の低さに耐えられないのです。

 でもそういう意見に反対の人は「都会と地方の差をなくすためには、高速道路や新幹線が不可欠だ」とか「地方活性化のためには補助金が必要だ」と言うのです。そこには生産性の概念がありません。単に「新幹線や地方美術館の価値はゼロより上である」と言っているだけです。

 そうではなく「高速道路や新幹線の建設が、都市と地方の格差を縮小するための、もっとも生産性の高い方法なのか?他にもっとよい方法があるのではないか?」と考えることが必要なのです。地方活性化のためのもっとも生産性の高い支援方法とは、本当に地方に補助金を配ることなのでしょうか?

 このように価値の絶対量で善し悪しを語る人と、生産性の高低でその是非を判断する人が混在しているため、両者の意見はまったく噛み合わないのです。

グローバル企業が税金を払いたがらないワケ

 グローバル企業の租税回避問題についても、生産性という観点からみると一般とは少々異なる解釈が生まれます。アマゾンやアップル、グーグルなどのグローバル企業は、税率の安い国に帳簿上の利益を集めて組織的に節税をしており、最近はそのことが世界中で批判されています。

 彼らはあんなに儲かっているのに、なぜそんなに税金を払いたくないのでしょう?

 税金を払えば、その国は社会インフラを整備したり教育制度を整えます。結果として豊かになった国民は、アップルやアマゾンのよい顧客になるのです。だから長期的には納税行為にもリターンは期待できます。それなのになぜ、あそこまで大規模な租税回避を続けるのでしょうか?

 単に利益を増やし、株価を上げたいだけでしょうか?それもないとは言いません。でも私には、彼らが税金をできるだけ圧縮したいと考えるその根底には、「自分たちのほうが国家組織よりもお金の使い方に関する生産性が高い」という自負があるのかもしれないと思えるのです。

 グーグルが1000億円を自分たちで人工知能やゲノム解析や自動運転車の研究開発に使うのと、アメリカ政府に納税して無人攻撃機や爆弾代として使われたり、日本政府に納めて地域再生の資金としてバラまかれたりすることを比べたら、お金という資源の生産性はどちらが高いでしょう?

「どちらのお金がより高い価値を生んでいるか。有効に活用されているか」という視点で考えると、彼らの納税意欲が極めて低くなるのも仕方のないことのように思えるのです。

 アップルが作り出したiPhoneのおかげで、私たちの生活がどれほど豊かになったか考えてみてください。自分や家族が病気になったとき、グーグルのおかげですぐに治療法や同じ病気の患者の体験記が見つけられるようになったし、あと10年もすれば体が不自由な高齢者でも車で移動できるようになりそうなのです。納税先としてこれらの企業と国家を自由に選択できる制度があったら、みんなどっちを選ぶのでしょう?

 節税してもそのお金を貯め込んでいるだけの日本企業には、しっかり税金を納めてもらいたいと思います。でも、アマゾンやグーグルが次々と投資をしている分野、そしてそこから生み出される驚異的な成果を見ていると、世界全体のお金の使い方としては彼らに納税をさせるより、研究開発のために自由に使ってもらったほうが人類のためになるのではないか、だってそのほうがはるかに生産性が高いじゃん、と思えたりもするのです。