「こんなときだから」と普段の世間話などが封じ込められるのは危険です。逼迫した情況でも、人は普段と同じような世俗的なことを考えてしまうものです。そういう世俗的な部分を持ち合わせていることを認め合うほうが、健全です。

被災地では、
お葬式をやりたくてもできない

 ちょうど1年ほど前に、新書『葬式は、要らない』(島田裕巳著)が発売され話題になりました。そこから「直葬」が脚光を浴びることになります。家にも寺にも斎場にも行かず、亡くなった場所から直接火葬場に行くという形態の葬儀です。特に、東京では3割の比率で直葬が行われているという話も聞いたことがあります。

 しかし、震災後の現時点で考えると、お葬式をする余裕があったからこそのブームだったのではないかと思うのです。

 不謹慎な言い方になるかもしれませんが、被災地で起こっているのは「葬式は、要らない」ではなく、「葬式は、できない」という状況です。

 私が訪れた名取市でも、あまりにも遺体の数が多いために市内の火葬場では焼くことができなくなっていました。やむを得ず、東京や山形など遠く離れた地で荼毘に付し、遺骨だけ戻すという形の葬儀が行われているところもありました。東京に送られてしまうと、交通手段や費用がないために遺族が立ち会えないという事態も起こっています。

 被災地では、好むと好まざるとにかかわらず、究極の「直葬」が行われています。しかし、それは望んだわけではなく、それしか方法がなかったからです。

 お葬式をしたいのにできない被災地では、もちろん「お葬式はいらない」という声はありませんでした。お葬式をできるのにしないということは、ある種の贅沢なのかもしれないと、私は感じました。

お葬式の世俗的な側面が
遺族の悲しみを和らげる

 お葬式には、死者を供養すること以外に、グリーフケアの側面があります。

 グリーフケアとは、愛する人を亡くし悲嘆(グリーフ)にくれている人が、その事実を受け入れるまでのプロセスをサポートすることをいいます。