エコノミストのロバート・アラン・フェルドマンさんとブロガー・ちきりんさんの対談、第3回です。2人の話題は次第に日本社会の深層に迫ります。日本の生産性向上を阻み、改革を難しくしている「自己決定が苦手」という日本人の特性は、どこから来ているのでしょうか?(構成/崎谷実穂 写真/疋田千里)

「牛は鶏の仲間? 草の仲間?」<br />日本の改革の難しさがわかるテストロバート・アラン・フェルドマン
1970年、AFS交換留学生として初来日。76年、イエール大学で経済学、日本研究の学士号を取得。84年、マサチューセッツ工科大学で経済学博士号を取得。国際通貨基金(IMF)、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券を経て、98年モルガン・スタンレー証券会社に入社(現・モルガン・スタンレーMUFG証券)。現在、同社のシニアアドバイザー。著作に『フェルドマン博士の 日本経済最新講義』(文藝春秋)などがある。

参議院の議員を2人だけにする!?

ちきりん 農協など業界団体の力が強いがゆえに、農業の生産性が改善されないという話がありましたが、ああいう団体の力の源泉には、1票の格差や年齢区分による投票率の差といった「選挙力」の違いがあります。『フェルドマン博士の日本経済最新講義』でも、投票方法をドラスティックに変えるべきだと提言されていました。

フェルドマン そうですね。投票制度によって結果に歪みが生じているのは、アメリカも同じです。今回の大統領選では、それがはっきりと現れました。200万人以上ヒラリー・クリントン氏に投票した人が多かったのに、制度がおかしいゆえにトランプ氏が当選したわけです。
 1つ、私が考える「シルバー歪み(選挙制度および投票率の違いがもたらす高齢者の過剰影響力)」を是正するためのアイデアがあります。それは、余命によって投票の重み付けを変えるということ。たとえば、60歳の人は平均余命からあと30年弱生きるだろうと考えられます。その人の投票権を1票としたら、30歳の人は2票持てるようにする。そうしたら、これからの社会の本当のニーズを反映した結果が出ると思いますよ。

ちきりん それ、私も大賛成です。2015年の大阪都構想の是非を問う住民投票でも、0.8%の僅差で反対派が勝ち、改革の芽がつぶされました。これから30年、40年と大阪に暮らす若者にとっては、大阪が東京に並ぶ国際都市になってくれるほうが望ましいと考える人も多いはずです。
 でも私でさえ、もしも今80歳で大阪に住んでいたら、「自分が死ぬまで、もう何も変わらないでほしい。このまま暮らさせてほしい。住所が変わるなんてまっぴらごめん」と思うはず。社会の長期的な展望を問う選挙において、高校生が投票できないのに高齢者はみんな票を持っている。これでは社会は変われない。

フェルドマン 1票の格差をなくすためのアイデアもあります。それは、選挙区の人口比例で代議士の議決権の重さを変えるということ。鳥取県の人口は約57万人で、1人区の全体議席数が295とすると、鳥取選出の議員には、人口比例で1.34の議決権を与えるのです。これは、選挙区を変えずにすぐできます。

ちきりん それはいい案ですね! 選挙区が統合されると自分の選挙区がなくなったり当選枠が減ったりするので、政治家は全力で反対します。でも国会での議決権の重さが変わるだけなら、当落に関係ないから実現できそう。とはいえアメリカでも、上院議員は各州から2人ずつ選ばれてますよね? こういう、人口に拘わらず全地方から国政に代表を送るべしという考えは、やはり必要なものなのでしょうか?

フェルドマン 私はそう思います。でも、アメリカの制度はそんなにいいと思っていません。結局かなり既得権益層が力をもってしまう構造になっているからです。そこで、日本の今の憲法でもできる参議院の改革案を1つ出しましょう。それは、参議院の定数を2人にすることです。憲法では、参議院議員の任期は6年とし、3年ごとに議員の半数を改選するとされています。だったら、全国から2人選び、3年ごとに1人ずつ改選すればいい。

ちきりん それはまた大胆なことを。しかも1人だと「半数の改選」ができないから、2人だなんて細かいところまで……(笑)。

フェルドマン これは疑似大統領制になるんですよね。総理大臣は自らの仕事を全うし、参議院の2人はその采配に対して国民の代表として棄却権を持つ。そうすると、かなりいい人が選ばれるのではないかと思います。選挙区が1つなので、1票の格差も解消されます。

ちきりん でも全国区で選挙をすると、知名度の高いタレントやスポーツ選手しか選ばれないのでは?

フェルドマン では、2人ではなく、10人でもいいと思います。とにかく衆議院と大きく役割を変える、ということが必要です。今の国会議員は、年金の支給額を減らすなど、本当に日本の将来のためになることを公約に掲げると、選挙で負けてしまうという大きなジレンマを抱えています。それを解決するためにもいい案だと思うのです。

ちきりん 私も今の選挙制度は問題だと思います。本当に国のためになる政策を実行できる人が、きちんと勝てる選挙制度にしなければいけない。今は街頭で握手をしまくるとか、毎朝駅前に立って名前を連呼するとか、そうしたことをしないと当選しない。でもこれでは、まともな人が議員に立候補しようと思わないですから……。

「牛は鶏の仲間? 草の仲間?」<br />日本の改革の難しさがわかるテスト

「国が規制をつくってよ」は緩慢な自殺である

ちきりん 政治には2つの異なる役割があると思うんです。1つは社会がどんどん進化できるよう、規制を緩和し、インフラを整備する仕事です。最先端の山頂をより高くするための施策。そしてもう1つが、セーフティネットを作ること。社会の変化から落ちこぼれた人たちを支えたり、持ち上げて再チャレンジできるよう支援する。
 この両方をあわせて進める必要があるのに、日本の場合は後者を減らすために、前者をセーブしようとする。置いて行かれる人が出ると困るから、規制緩和をしない、みたいな判断をする。こういう傾向について、フェルドマンさんはどう思われますか?

フェルドマン 適度なセーフティネットは必要でしょう。でも私は、自己責任の範囲を小さくしすぎるのはよくないと考えています。たとえば、日本で今社会的弱者というと、ブラック企業の社員もそうですよね。その社員を救うために、長時間労働を強いる企業に対して「労働時間を減らしなさい」と規制をかけるのは、果たして本当にいいことなのでしょうか。私は、自分が働きすぎだと思うのなら、上司や会社に対して「この状況はよくない」と社員自らが言うべきだと思います。社員にはその権利があるし、義務もある。それがひいては社会のためになるんです。

ちきりん そうなんですよ。私たちは奴隷じゃない。嫌なら会社を移ることもできる。会社を変えたいなら自分達で変えていくこともできる。でも多くの人は、国が一律の規制をかけてくれたほうが自分のためになると思っていますよね。自分は何もしなくても、国が守ってくれるならありがたいと。

フェルドマン 一時的には楽ですよ。でも長期的に見ると、彼らは利用されているんです。そうして、役所が企業を抑制することが当たり前になると、役所の存在意義はどんどん高まっていきます。自分の存在意義を上げるために、弱者を利用しているんです。今のアメリカの共和党もそうです。あまり教育にお金を使わないと、教育水準が低くなる。そうするとポピュリズムを利用できるようになって、共和党は政治がやりやすくなる。リパブリカン(共和党主義者)が本来やっていた、「自立心のある社会をつくろう」という政策を進めてこなかったことが、今のアメリカの状況を招いています。

ちきりん それはすごくおもしろい問題提起ですね。私にはその視点はなかったかも。私たちは、「いい国、いい政府とは、国民が何も考えなくても安心して暮らせるよう、すべてを先回りして考えていてくれる国だ」と思いがちです。でもそういう状況が続くと、個人は自立できず、国の権力がどんどん巨大になっていく。それは官僚の思うつぼだし、権力者の思惑通りだと。ポピュリズムを進めたい政治家や、権限を拡大したい官僚にとっては好都合なんだと。
 つまり守られてて安心だと思っていたら、いつの間にか自分の足で立てなくなっていた、という話ですね。それって親子関係でも同じかも。親がいつでもどこでも子どもを守っていたら、子どもは自立心を失い、何かあったらすぐ親に助けてもらおうとする子になる。しかも親の愛情に感謝こそすれ、まさかそれによって、自分が自分の足で人生を歩けない人になってしまうとは思ってもみない。

フェルドマン それは緩慢な自殺だと思いますよ。なんでもやってあげるというのは、親と子の関係ではなく、飼い主とペットの関係です。ペットに対して自立心を育てようとは思わないでしょう。国民を正しい方向に導く、優れたリーダーシップを持つ政治家が現れていないことが、問題の一端であると思います。

問題の根本は、西洋文化と東洋文化の違いにある?

ちきりん その話って、終末期医療に関して話した「自己決定できるか」、という問いにつながると思うんです。自立心がある人を育てるには、人生の要所要所で自己決定するという経験が不可欠です。でも、そういう決断が自分でできる人になるには何が必要なんでしょう? 教育でしょうか?
 よく欧米では、幼少期から自分の好きなものを皆の前でプレゼンテーションするなど、「自分はこう思う」という意見を主張する機会がもうけられていると言います。そういう教育が、自己決定できる人を育てるのでしょうか?

フェルドマン 教育よりも、根深いところに原因があると思います。今はアメリカと日本の政治で同じようなことが起こっていますが、根本的な自己決定に対する考え方は、西洋文化と東洋文化の違いから生まれているのではないでしょうか。社会心理学者のリチャード・E・ニスベットが書いた『木を見る西洋人 森を見る東洋人』という本に、興味深い研究結果が載っています。まず子どもに鶏と草の書かれたカードを見せる。そして、牛の絵を見せて、これはどっちの仲間か聞くんです。ちきりんさんは、どっちだと思いますか?

「牛は鶏の仲間? 草の仲間?」<br />日本の改革の難しさがわかるテスト『木を見る西洋人 森を見る東洋人』(ダイヤモンド社)より抜粋


ちきりん 牛と鶏が同じグループでしょ。鶏と牛は動物で自分で動けます。草は植物なので動けない。

フェルドマン お、ちきりんさんは西洋文化圏の方ですね(笑)。大抵の日本人は、草を選ぶんですよ。

ちきりん えーーー!! マジですか?

フェルドマン 中国や韓国の子どもたちも、草です。

ちきりん えっえっ、ほんとに?? いったいなぜ牛と草が同じグループになるんですか?  まったく理由がわからないんですけど???

フェルドマン 牛は草を食べるからですね。アメリカの子どもたちは、ちきりんさんと同じく鶏とのグルーピングを選びます。アメリカの子どもでも、親がアジア系だと五分五分です。

ちきりん 牛が草を食べるから同じグループに?? 私にはその発想はなかったです。一瞬も頭に浮かばなかった。というか、「牛と草が同じグループです」と言われても、なかなか思いつけない。本当にそういうグルーピングをする人がアジアでは多いんですか?

フェルドマン おもしろいですよね。アジアの文化では、グルーピングを関係で決めるんです。西洋は属性で決めます。私が日本人の友達にこの質問をした時、相手はやはり草を選びました。そして、私が鶏を選んだことを伝えると「ああ、両方食べ物だから?」と言ったんです。これは、自分と対象物の関係で考えている、ということですよね。

ちきりん 関係性でグルーピングするんだ! ストーリーが大事なんですね。はー、それは気が付きませんでした。

フェルドマン 最近の若い日本人にこの質問をすると、「鶏」と答える人も増えてきたので、徐々に意識が変わってきている部分もありますけどね。でも、選挙や医療、教育などさまざまな制度設計は、こうしたその国、地域の文化も前提に考えないとうまくいかないと思います。

ちきりん 「当然、牛と鶏が同じグループでしょ!」みたいな人が大半を占める欧米で成功した制度を日本に持ってきても、そのままではダメだということですね。なるほど、それにしても「牛と草」を同じグループにする人がそんな多いなんて、ほんとに驚きました。

※この対談は全4回の連載です。 【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】