金融業界は今や、政治を動かし、一度揺らいでしまえば日々の暮らしを左右する存在になってしまった。世界的に尊敬を集める世界最高のエコノミストの一人であるジョン・ケイは、最新刊『金融に未来はあるか』で、他の産業とは違う特別な存在であるかのように語られる金融業界の神話を切り崩し、巨大銀行の業務の大半が社会にとっていかに有害無益であるかを解き明かす一方で、リーマン・ショック後、金融業界の肥大化を抑制するために導入された膨大な規制も逆効果だと断じ、銀行を「よそ様のお金を預かる」まっとうなサービス業に回帰させていくための全く新しい改革案を提示する。フィデューシャリー・デューティー、ガバナンス・コード、スチュワードシップ・コードなどを提唱し、日本の金融庁などにも大きな影響を与えたことでも知られるジョン・ケイのザ・エコノミスト、フィナンシャル・タイムズ、ブルームバーグでベストブック・オブ・ザ・イヤーを獲得した著作『金融に未来はあるか』からエッセンスを抜粋する。

なぜ、金融機関は
儲かっているように見えるのか?

金融街(シティ)では、連中が売ったり買ったりしている。どうしてまたそんなことを、と尋ねてみる者はいない。だが売買してさえいれば気がすむのなら、神様もお咎めだてはなさるまい、どうぞご自由に(ハンバート・ウルフの詩『天界ならざる街(シティ)』1930年)。

 ニューヨークのウォール街、あるいはロンドンの金融街シティとその拡張部分に当たるカナリーワーフの高層ビル群を通りかかる者は皆、現代の金融業の巨大さに圧倒されるだろう。「Citigroup」「HSBC」といったおなじみの銀行のロゴが目に飛び込んでくる。もっと地味な真鍮のプレートに目をやると、一般大衆を相手にしていない組織の名が読み取れる。

 この業界で最も重要な企業の本社ビル、マンハッタン、ウエスト・ストリート200番地のゴールドマン・サックス本社は、表に社名を掲げていない。ビルは豪奢で、リムジンの流れがひきもきらない。ここの重役室フロアに執務室を構えるお歴々ときたら、月収だけで一般人の生涯収入を超えてしまう。それにしても、連中はいったいどんな仕事をしているというのだろうか。それが意外や意外、内輪で売り買いし合っているのだ。

 英国の銀行が抱える資産はおよそ7兆ポンドで、国民の年収を合計した額の4倍に上る。銀行の負債もほぼ同額だ。英銀の資産は英国政府の負債の5倍に当たる。しかしこれら銀行の資産は、大半が他の銀行に対する債権で構成されており、負債は主に他の銀行に対する債務である。大半の人が思い描く銀行の基本業務といえば、ものづくりやサービス業に携わる企業や個人に対する貸し付けだろうが、これは総額の3%ほどにすぎない。

 現代の銀行、そしてその他大半の金融機関は証券を取引しており、金融業界の拡大は主にこうした取引の拡大によるものである。金融業界は資産、つまり企業の現在稼働している資産と将来見込める利益、あるいは個人が持つ物的資産と将来見込める所得に対する債権を設定しており、こうした債権はほぼどれも、売買可能な証券に姿を変えることが可能だ。

「超高速取引(ハイ・フリークエンシー・トレーディング)」は、証券の売買価格をひっきりなしに表示するコンピュータによって行われている。買い手の手元にこうした証券が保有されている時間は、文字どおり瞬く間よりも短いことだってある。通信プロバイダのスプレッド・ネットワークス社は最近、ニューヨーク-シカゴ間のデータ送信時間を1000分の1秒未満の単位で短縮するため、アパラチア山脈を貫く回線を敷設した。

 世界貿易は急拡大を遂げたが、外為取引の拡大スピードはもっと速い。1日当たりの外為取引額は、1日当たりの財およびサービスの国際貿易額をおよそ100倍にした規模だ。英国で1年に決済処理される金額は75兆ポンドで、英国の国民所得のおよそ40倍に当たる。証券取引は急拡大したが、金融活動の規模が爆発的なまでに膨らんだ原因は、主にデリバティブ(金融派生商品)市場の発展に求められる。デリバティブの価値が他の証券の価値から派生していることが、派生商品と呼ばれるゆえんだ。証券が資産に対する債権だとすれば、デリバティブ証券は他の証券に対する債権であり、その価値は裏付けとなるこれら証券の価格、突き詰めれば価値次第で決まる。

 ひとたびデリバティブ証券を作り上げれば、そこから派生するデリバティブ証券を次から次へと生み出すことが可能で、今度はその証券の価値が他のデリバティブ証券の価値に左右される、という繰り返しが起こる。こうしたデリバティブ取引の裏付け資産の額は、世界中の物的資産を合わせた額の3倍に上るのだ。

巨大なゼロサムゲームは
何のためにやっているのか?

 これら一切合切のことは、いったい何の役に立つのだろうか。何のためにやっているのだろう。そしてなぜ、これほどまでに儲かるのだろう。

 常識的に考えれば、閉じたサークル内で紙切れを交換し合うことを続けていった場合、紙切れの総額は、多少は変わるとしても、ほとんど変化しないはずだ。仮に閉鎖サークル内の一部のメンバーが法外な利益を上げるとすれば、その利益はサークル内の他のメンバーを食い物にすることでしか成り立たないだろう。常識的には、こうした活動の結果、取引される資産の価値はほとんど変わらないままで、全体として見れば利益を上げることができない。この常識的な見方の、いったいどこが間違っているというのだろうか。

 さほど間違ってはいない、と私は結論付けるであろう。しかし、この結論の正しさを証明するためには、金融業界の活動を詳しく検証するとともに、金融がどのような道筋でわれわれの生活をより良くし、ビジネスの効率化をもたらしているのか、あるいはその可能性があるのかを考察していく必要がある。

 この業界の経済への貢献度を測定するのはややこしい。なぜなら、金融活動の生産と収益率についての開示情報を読み解くことには、多くの困難がつきまとうからだ。それでも私は、収益性が誇大表示されている事実を明らかにし、経済統計が金融業の生産の価値を正確に反映していないこと、そして金融活動の大部分がわれわれの生活の向上とビジネスの効率化に、ほとんどと言っていいほど寄与してない様子を示せるであろう。とはいえ、こうした社会的もしくは経済的目的をかなえるうえで金融にできることは多いのであって、それがきちんと実行されていないか、場合によってはまったく実行されていないのが実情なのだ。

 現代社会は金融を必要としている。これには多岐にわたる決定的な証拠があるし、社会と金融の因果関係ははっきりしている。工業化および世界貿易拡大の第一段階は、英国やオランダといった国々における金融の発達と足並みをそろえていた1 *。今日の世界を見渡してみれば、1人当たり所得の水準および伸び率と、金融の発展度合いとの関連性は統計的に証明されている。貧しい国々では、決済の円滑化や少額融資の提供といったほんの小さな一歩を踏み出すだけで、経済のダイナミズムに重大な影響を及ぼすことができる。

 そしてわれわれには、共産主義諸国による金融業の抑圧という、管理下の実験ともいうべき経験がある。ロシアと中国における金融機関の発展は、1917年と49年の革命によって阻まれた。チェコスロバキアと東ドイツは第二次世界大戦前、さらに洗練された金融システムを発展させていたが、共産主義政権はクレジット(信用)と証券の市場を閉鎖し、中央の計画によって企業への資金配分を行う体制を選んだ。無益かつ非効率なこのやり方が直接的な原因となって、これらの諸国は惨憺たる経済状況へと陥っていった。

 一国の繁栄は金融システムがうまく機能していない限り望めないが、さりとてその国の金融システムが大きければ大きいほど繁栄の可能性が高まる、というものではない。過ぎたるは及ばざるがごとし、ということだってある。金融革新は工業社会の誕生に欠くべからざる役割を果たした。だからといって、あらゆる現代の金融革新が経済成長に寄与したわけではない。良いアイデアも、度を越すと往々にして悪いアイデアに転じるものだ。

 金融もしかり。金融業界は今日、政治において主要な役割を演じている。産業界で最も強力なロビー勢力であり、選挙運動資金の重要な提供源だ。ニュースは日々「市場」、つまり証券市場の動きを伝えている。企業の経営方針は金融によって首根っ子を押さえられている。ここ20年というもの、「株主価値」の向上が呪文のごとく唱えられてきたからだ。政府の経済政策は「市場」がどう考えるかを念頭に置いて運営され、家計は退職後の安心安全をますます「市場」に委ねざるを得なくなっている。トップクラスの大学院や大学を成績最優秀で卒業した人々のうち、かなりの割合が就職先に選ぶのが金融だ。

金融機関を特別なものにした
「金融化」の正体

 金融業界が過去30年から40年の間、経済の中でこれほどまでに支配的役割を獲得するに至った過程を、私は「金融化(financialisation)」という言葉で表現することにする。お見苦しい単語だが、われわれの政治、経済、社会に深い影響を及ぼした歴史の歩みについて、一言で説明してくれる便利な表現だ。私はまた、2007年から09年の出来事とその帰結を表現するのに「世界金融危機」という言葉を用いていこうと思う。

 とはいえ、本書は世界金融危機についての類書とは一線を画している。金融の性質および金融化の起源についての書である。社会、経済組織の大規模な変革というものは、一般に、特定の社会集団の政治的影響力が強大化し、変革を支える概念的枠組みが台頭し、さらに全体状況がうまく絡み合うという条件が重なった結果もたらされるものだ。現代の市場経済の誕生も、民主主義の定着も、20世紀における社会主義の興亡も、すべてこのような過程をたどった。私が生まれてからの時代に起こったもう一つの大規模な経済的発展も、こうした過程を経たものとして説明できる。人口にして10億人規模に満たなかった市場経済が、良くも悪くも世界人口の半分を包摂する範囲へと拡大を遂げたことである。

 本書『金融に未来はあるか』の第I部では、金融化をもたらした政治的変化、知的枠組み、そしてより幅広い技術、経済面のシフトについて描写していこう。世界金融危機の驚くべき特色の一つは、政府と納税者が金融業界を守るのは当然の義務であるというふうに、どうも業界のほとんどの人々が考えていたらしいことだ。金融機関、その活動、そして業界で働く人々の法外な報酬さえも、ほぼ現状を維持できるように守る義務があると。それにも増して目が点になったのは、この言い分が政治家と大衆にも幅広く受け入れられたことである。「金融は特別」という概念は、議論の余地のないものとされていた。金融界の外にいる知識人の多くには、金融業者がいったい何をしでかしたのかよく理解できなかったことも手伝って、この考え方はますます強まった。

 だが金融は特別ではない。それに、金融には独特の地位があるという論理を無批判に受け入れようとするわれわれの態度は、大きな弊害をもたらしてきた。すべての活動には独自の慣行があり、その活動に携わる人々には固有の言語がある。私がこれまでに関わってきたすべての産業が、自分たちは特異だと信じているし、それには一理ある。業界で働く人々が考えるほど特異性は大きくないにせよ、である。それにしても、金融業界はそうした思い込みがずば抜けて激しいのだ。

 この業界は主に業界内で取引し、業界内で会話し、業界内で生み出した業績の尺度に照らして自己評価をする。経済学の二つの流派、すなわちファイナンス理論と金融経済学は、こうした現象に捧げられている。

 ローレンス・サマーズはこれを「ケチャップ経済学」、つまりケチャップの価格を、ケチャップ本体の価値を無視し、何クオート(1クオート=約1リットル)入りかだけに着目して比較するようなものだと揶揄した。サマーズといえばさまざまな学術分野に卓越し、ビル・クリントン米政権で財務長官を務め、ハーバード大学長の座を追われ、オバマ米政権で国家経済会議(NEC)委員長を務め、米連邦準備制度理事会(FRB)の議長候補に名が挙がりながら拒否された人物である。サマーズは本書『金融に未来はあるか』の中に幾度か登場する。

「ケチャップ経済学」というサマーズの軽蔑的な物言いは、金融の独自性を否定し、特異で専門的な知的道具を持っていなければ金融活動と金融市場の仕組みは理解できない、という考え方を一蹴するものだ。サマーズが出した挑戦状を、本書はあらためて叩きつける。金融はその他すべての産業と何ら変わらぬビジネスであり、鉄道や小売り、電力供給など他の産業に適用されるのと同じ原則、すなわち同じ分析手段と同じ価値測定基準に照らして判断されるべきものだ。私はこれらの産業から得た教訓を、遠慮なく金融にも当てはめていきたい。

金融業は特別な存在ではない
それならそのサービスはどうなのか?

 金融も単にビジネスの一つであるとする観点に立つと、「金融とはいったい何のためにあるのか?」という疑問が湧いてくる。本書『金融に未来はあるか』の第II部では、専らこの疑問に切り込んでいく。この産業は市場の参加者ではなく市場の使い手から見て、どのようなニーズに応えてくれるのだろうか。

 金融化に伴い、金融に投じられる資源の規模は著しく増加した。高給取りも増えた。だが金融活動の質はどう変わったのだろうか。

 金融は主に四つの道筋を通じて、社会と経済に貢献し得る。第一に、決済システムは、われわれが賃金や給与を受け取り、必要なモノやサービスを買う手段であると同時に、企業側もこのシステムを通じてそうした目的に資することができる。第二に、金融は貸し手と借り手を引き合わせ、貯蓄が最も有効な使い道へと向かうよう導く役割を果たす。第三に、金融のおかげでわれわれ個々人は生涯にわたる、あるいは世代間の資産管理が可能になる。第四に、金融は個人と企業の双方にとって、日々の暮らしや経済活動につきまとうリスクを制御する手助けとなる。

 これら四つの機能──決済システム、借り手と貸し手の引き合わせ、家計の管理、リスク制御──が、金融が提供している、あるいは少なくとも提供し得るサービスである。金融革命がどの程度役に立ったかは、金融の目的である決済、資金配分、個人資産の管理、そしてリスク制御をどの程度進展させたかによって測られる。

 経済における金融業界の重要性は、これとは異なる方面から説明されることが多い。金融業が生み出した雇用の数や、金融業で稼いだ所得、場合によっては金融業から得られる税収によって語られることもある。ここには大いなる混同がある。社会にとっての金融業の真の価値は、提供するサービスの価値であって、業界で働く人々の懐に入る収益ではない。こうした収益は近年、巨額に上るようだ。ここ数年で金融業について数千ページに及ぶ文章が執筆されたが、たった一つの根本的な疑問、つまり「なぜこの業界はこれほどまでに儲かるのか」については、まったくと言っていいほど紙幅が割かれていない。

 いや、問うべきは「なぜこの業界はこれほどまでに儲かって見えるのか」かもしれない。紙切れを交換し合う活動が全員に利益をもたらすはずがない、という常識的な感覚こそが、収益の大半が幻想にすぎないことを解き明かす鍵かもしれない。金融業界の拡大は、その大部分が新たな富の創出を意味しておらず、経済のどこか別の部分で生み出された富をこの業界が横取りし、そのほとんどを業界で働く人々の一部が甘い汁として吸ったことの裏返しである。

 今日の金融業界には目に余る事例があふれているが、とはいえこの業界に関わる大半の人々に罪はないし、目に余る行為とも無縁だ。彼ら、彼女らは決済制度を動かし、金融仲介業務が円滑に運ぶようにし、人々が個人資産を管理したり、リスクを制御したりできるように手助けをしている。金融業に携わるほとんどの人々は、全世界の支配者になりたいという野望など抱いていない。彼らは銀行業や保険業の比較的地味な事務処理に携わり、その報酬として比較的控えめな給与を受け取っている。われわれには彼らが、そして彼らが行ってくれる仕事が必要だ。

 というわけで、本書『金融に未来はあるか』の第III部では改革を取り扱う。規制改革ではなく、構造改革である。金融化の時代を通じて日々厳格さを増しながら、効果のほうは薄れる一方の規制が、いかに問題の一端、それも大きな一端を担っており、解決には役立っていないかを、私はつまびらかにしていこう。規制は少な過ぎるどころか、多過ぎるにもほどがある。必要なのはこれまでとはまったく異なる規制哲学だ。われわれは業界の構造と、そこで働く個々人にとってのインセンティブに注目するとともに、数十年、いや数百年も前から存在する、規制上および法的な制裁の適用を阻んできた政治勢力に切り込む必要がある。果てしなく続くかに見える複雑なルールの増殖に終止符を打たねばならない。今でさえ、おびただしい数の規制専門家が寄ってたかってもルールを理解できない有様なのだから。

 金融業改革の目的は、実体経済のニーズにかなう金融サービスが、尊敬と優先順位を回復することに置かれるべきだ。金融以外の経済活動を意味する「実体」経済という言葉にはどこか皮肉な響きがあるが、ずばり核心を突いているのもまた事実である。金融業が発展し、コンピュータ化され、普通の事業や日々の生活から分離してしまった様子には、何やら実体とかけ離れた感じがある。

 金融街での売り買いが国富をごっそりと吸い上げるのみならず、社会で最も優秀な人々の相当部分が売り買いに時間を費やしているとすれば、ハンバート・ウルフの詩のように「気がすむのなら、どうぞご自由に」とあぐらをかいていることは、もはや許されない。最後の数章では、どうすればもっと範囲が限定され、実体経済のニーズに直結した金融業に焦点を絞っていけるかを提示していこう。決済、借り手と貸し手の引き合わせ、われわれの資金の管理とリスクの低減といったニーズだ。われわれは金融を必要としている。しかし今日の金融ときたら、いくらなんでも、過ぎたるは及ばざるがごとし、である。

『金融に未来はあるか――ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実』より