リーマン・ショック、アラブの春、地震と津波、そして原発事故……。私たちは今、昨日までは「ありえない」と言われたことが、今日、現実のものとなる不確実な世界で生きることを強いられている。ではどうすれば、ランダムで、予測不能で、不透明で、物事を完璧に理解できない状況でも、不確実性を味方につけて、したたかに生き延びていくことができるのだろうか――。
サブプライムローンに端を発する金融危機を喝破し、ベストセラー『ブラック・スワン』で全世界に衝撃を与えた「知の巨人」タレブが、その「答え」を見つけた最高傑作『反脆弱性』から、「プロローグ」を順次公開していく連載第4回。社会から「反脆さ」を奪い、混乱に陥れる「フラジリスタ」の正体を暴く。

フラジリスタ

 理解できないものはいじらないでおこう、というのが本書の考えだ。だが困ったことに、世の中にはそれとまったく逆の連中がいる。本書で「フラジリスタ(訳注)」と呼んでいるのがその種の連中だ。彼らは決まってスーツにネクタイという身なりで(たいてい金曜日にも)、ジョークを投げても能面のような表情を返してくる。椅子の座りすぎ、飛行機の乗りすぎ、新聞の読みすぎで、若いうちから早くも腰を痛めていることが多い。それから、かいぎとかいう奇妙な儀式によく参加する。それに加えて、自分に見えないものはそこにない、理解できないものは存在していないと思いこんでいる。根本的に、「未知のもの」を「存在しないもの」と誤解しているわけだ。

 フラジリスタは「ソビエト=ハーバード流の錯覚」に陥りやすい。これは科学的知識の適用範囲を(非科学的に)過大評価する現象だ。この錯覚を抱える人々は、「浅はかな合理主義者」「合理化主義者」、または単に「合理主義者」と呼ばれる。彼らは物事の根底にある「道理」が、自動的に理解可能なものだと決めつけている。だが、合理化と合理的を混同するのは禁物だ。このふたつはほとんど正反対だからだ。物理学以外の複雑系の分野全般では、物事の根底にある道理は私たちには理解しづらい。フラジリスタにはもっと理解しづらい。ところが、自己紹介をしてくれるユーザー・マニュアルがないというこの自然界の事物の性質は、悲しいことに、フラジリスタにとってはあんまり障害物にはならない。フラジリスタたちは彼らの「科学」の定義に従い、団結して自分の手でそのユーザー・マニュアルを書き上げるのだ。

 フラジリスタのせいで、現代社会は世の中の神秘的なもの、不可知的なもの、ニーチェのいう「ディオニュソス的」なものに対して、ますます盲目になっている。

 本書の登場人物であるデブのトニーは、これをブルックリンの言葉遣いで「カモのゲーム」と呼んでいる。ニーチェほど詩的ではないが、意味深さでは劣らない。

 ひと言でいえば、(医療、経済、社会計画の分野の)フラジリスタとは、利得は些少で目に見えるが、潜在的な副作用は深刻で目に見えない、人工的な政策や活動を推し進めようとする連中のことだ

 医療のフラジリスタは、人体に備わる自然治癒能力を否定して過剰に医療介入し、とても重い副作用があるかもしれない薬を平気で処方する。政治のフラジリスタ(干渉主義の社会計画者)は、経済を(自分の手で)修理しつづけなきゃいけない洗濯機のようなものと勘違いし、経済を崩壊させる。精神医学のフラジリスタは、知的・感情的な営みを“改善”させるためといって子どもを薬漬けにする。金融のフラジリスタは、人々にリスク・モデルなるものを使わせ、銀行システムをぶっ壊す(そしてまた同じモデルを使う)。軍事のフラジリスタは、複雑な体制をかき乱す。未来予測のフラジリスタは、人々にリスクを冒させる。ほかにも挙げればキリがない(*)

 事実、政治的な議論には「反脆さ」というコンセプトが欠けている。政治家たちがスピーチ、目標、約束で掲げるのは、反脆さではなく、「耐久性」や「堅牢性」とかいう弱気な考え方だ。そして、その過程で成長や進化のメカニズムを邪魔してしまう。私たちがこうして現世に生きているのは、「耐久性」とかいう軟弱な概念のおかげではない。もっといえば、議員さんのおかげでもない。一部の人たちが貪欲にリスクを冒し、失敗を繰り返してきたおかげなのだ。私たちはそういう人々をもっと応援し、守り、尊敬するべきだ。

* ハイエクは自身の有機的な価格づけという考えを、リスクや脆さの概念に取り入れたわけではない。ハイエクにとって、官僚は非効率的だというだけで、フラジリスタではなかった。本書では、まず脆さと反脆さを導入し、副次的な議論として有機的な価格形成の話をする。

訳注 フラジリスタ(fragilista)は、「脆さ」や「脆弱性」を意味する「fragility」と、「〜する人」を表わす接尾辞「-ista」を組み合わせて作った造語と思われる。「-ista」は悪い意味を表わすことが多い。日本語にすれば「脆さを生み出す連中」というくらいの意味。