先進国による協調的なドル下げ宣言だった「プラザ合意」によって、ドル円は直前の240円台から1988年に120円台まで下落しました。背景には、「レーガノミクス」による経済再建に失敗したアメリカが、経常黒字国であるドイツや日本との不均衡を為替レートで調整しようとする意図がありました。ただし、その効果は短期的に終わり、恒常的な不均衡解消に至らなかったばかりか、日本は円高不況対策によって、その後取り返しの付かないバブル経済へ追い込まれていったのです。今回は、そうした「プラザ合意」の背景とその影響についてひもときます。

1985年9月22日
ドルの下落幅は想定通りだったのか?

 9月23日は秋分の日です。1985年の同日(月曜日)も例年通りの祝日でしたが、東京為替市場では休日出勤を命じられたディーラーが少なくありませんでした。その前日の9月22日(日曜日)に、ニューヨークのプラザホテルで、アメリカ、日本、西ドイツ、イギリス、そしてフランスの先進5ヵ国の蔵相・中銀総裁(G5)が、実質的なドル切り下げで合意していたからです。

 前週9月21日(土曜日)の東京市場におけるドル円仲値は241円70銭でした。9月23日は、東京が休みでも、ウェリントン(ニュージーランド)や、シドニー(オーストラリア)の市場は開いています。アジア時間の昼頃には、欧州勢の早出組が市場に出てきますし、ニューヨークではアメリカ勢が手ぐすねを引いて待っていました。考えることは皆同じ――「ドル売り」でした。

 「プラザ合意」と呼ばれた先進国による協調的なドル下げ宣言により、ドルは円だけでなく、他通貨に対しても急速に値を下げていきました。なかでも、特に下落幅が大きかったのは、その合意が切り下げの主眼とされていたドル円でした。

 その日から1週間もたたないうちにドル円は210円台にまで下落し、年末にかけては200円近辺まで接近していきました。1986年1月に200円の大台を割り込むと、つるべ落としのようにドルは下げ止まらなくなりました。

 ドルの下げ過ぎを警戒した日本銀行の利下げやドル買い介入にもかかわらず、1986年7月にはドル円は150円台に達し、1971年のスミソニアン協定で設定された308円という水準のほぼ半分になってしまったのです。逆に言えば、ドルに対する円の価値が2倍になった、ということでした。ドルは、G5が想定していた以上に売り込まれてしまったのです。

 1987年に入ってもドルの下落基調は変わらず、今度はG5にカナダとイタリアが加わったG7が為替相場を安定させようと「ルーブル合意」を発表したのですが、ドル売りの波を止めることはできませんでした。

 その後、ドル円はさらに下落を続け、年末にはついに120円台に突入します。ここに至って、ようやくドル売りの嵐は鎮静化し、1988年以降は120円台での小康状態となり、自律反転の過程として1989年以降、じりじりと水準を切り上げていく展開へと転じたのでした。

 1985年9月に始まった先進国による「人為的なドル下げ作戦」は、当初2ヵ月程度を想定したプロジェクトであり、ドルの切り下げ幅の目途も10〜15%程度であった、と言われています。ドルを押し下げるための為替市場への協調介入も、同年11月に行われた日米協調介入が最後でした。

 しかし、「プラザ合意」に含意されたドル下げの政治的意図の余韻は、その後約3年にもわたって為替市場を支配し、各国の思惑を大幅に超えてドルが下落することになりました。それは、為替レートに関する各国協調戦略の効果がいかに大きかったかを示すと同時に、一度動き出した為替の流れは単なる協調介入くらいでは止められない、という小手先の政策の限界をも明確に市場に植えつけました。