マクロ経済と人間学を関連付けて、経済に人間学の横串を入れるという試みの第2回です。

 私の問題意識は日米欧、先進国の経済が金融主導型経済(金融資本主義)に展開したのは良いとしても、なぜ、それがいわゆるマネーゲーム型金融資本主義に陥ったのかという疑問です。このマネーゲーム型金融資本主義を構成するキーワードは1990年代、アメリカ、IT技術、ヘッジファンド、デリバティブ、グローバリズム、IMFです。前回同様に、歴史の流れを鳥瞰できるように図表をご参照ください。

 時代背景はといえば、共和党のレーガン大統領に代わって登場した民主党のクリントン大統領(1993~2001年)の時代です。アメリカは90年代の国家戦略としてIT革命と金融事業で盛り返そうとしました。91年のソ連崩壊による冷戦勝利に沸き立つ国民的雰囲気もこれを後押ししました。

 しかし、産業としてのIT業界は、産業の裾野が小さくアメリカのものづくりを回復させ得ずに終わり、2000年にIT革命は終わりを告げました。残ったのは金融事業で、むしろIT技術は金融業界で力を発揮し、デリバティブ等のグローバルな取引を可能にしました。

 さて、グローバリズム金融資本主義の巨大な帰結が2008年のリーマンショックなのですが、それが起きた経緯をおさらいします。

 70年代以降、貿易赤字を続けるアメリカ経済が破産せずに存続するには赤字を超える資金流入が必要で、それを可能にするのは高い利子率です。日本が90年代初頭からゼロ金利を続ける裏側でアメリカは息切れしながらも3%前後のGDP成長率を維持して世界のマネーを吸収し続けたのです。

 人口増加――恐らく移民――もその一つでしょう。この25年間、日本の人口は横ばいなのに、アメリカは3割も増やしています。そうした成長政策の最後の挑戦がサブプライムローンで、家計の住宅投資の増加でGDPの成長を維持しようと試みました。背景には貸付債権の証券化のような金融商品の開発、金融技術の革新もありました。結局、地価上昇が止まった時点でサブプライムローン証券は不良債券化し、世界を巻き込むリーマンショックを引き起こし、世界の金融の極端な収縮を引き起こしました。

 このショックから金融業界を守ろうと、アメリカ(FRB)は金融緩和を続けて6年が経過し、それにEU(ECB)も同調してヨーロッパの金融機関を支え続け、これに2013年4月に日本銀行も「異次元」の金融緩和という触れ込みで、同調しているわけです。

 他方で、このようなグローバリズム金融資本主義の行き過ぎを、例えばアメリカは2010年の「金融規制改革法(ウオールストリート改革および消費者保護法)」でヘッジファンドの活動にブレーキをかけようと試みていますが、結果は見えて来ません。

 ところで、ここで再確認すべきはグローバリズム金融資本主義のツールの中心であるデリバティブ取引の正当性の主張で、デリバティブはここ20年間のアメリカの金融戦略の「デファクト・スタンダード」(事実としての世界基準)として位置づけられているという事実です。

 成長率の低下による間接金融の不振と過去の蓄積された富の運用圧力下にある金融業界に向けて、IT技術を活用したデリバティブ取引を金融イノベーションとして打ち出したわけです。

 これは恐らく、金融業界主導だったのでしょうが、政府も加担しています。例えば、当時のロバート・ルービン財務省長官、ローレンス・サマ-ズ財務副長官がクリントン大統領の時代、1999年に制定した「金融サービス近代化法」です。これは金融システムの安定化のために1933年に制定されたグラス・スティーガル法――銀行と証券に相互参入の障壁を作り、ハイリスクの証券業務の失敗が金融システム全体に波及しないための規制――を廃止したものです。わかりやすく言えば、ゼロサムの直接金融――投資銀行――と信用創造を軸とする間接金融――商業銀行――の機能の違いを無視して、間接金融の資金がデリバティブ取引に回るようにしたのです。

 背景としては、戦後の世界秩序を形成していたアメリカの経済力の低下は軍事力の低下に結び付く。世界秩序の維持のためのアメリカ経済の復活、そのための新たな金融モデルとしてのデリバティブ取引はイノベーションそのものである。恐らく、そんな主張であろうと思います。

 その主張にアメリカはもちろん、先進国のグローバルで先端的な金融機関と金融当局が乗った。日本は1996年、橋本内閣の「日本版ビッグバン」がそれで、そのキャッチフレーズは「貸出から資産運用へ」でした。

 イノベーションは「創造的破壊」と呼ばれるように、旧秩序に属する層を結果的に崩壊に導くこともある。そもそも、利益に善悪の色目はない。「市場ルールに則って儲けてどこが悪いんですか?」。2007年インサイダー取引で有罪となった村上ファンド代表の逮捕される前日の記者会見の発言です。市場ルールに則ってさえいれば、利益に善悪はない。これが市場主義、グローバル金融資本主義の価値観です。

 われわれは冷静に、本当にそうなのかと問わねばなりません。このシリーズの私の意図は、経営と経済に人間学の横串を入れる、人間の善悪の価値基準を人生・永遠・社会システムに一貫させるという試みなのですから。結論は誰が、どのように出す? 議論ではなく結果が答えを出す、事実に答えさせるしかないということでしょう。要するに、それがもたらす結果が正当な経済行為か否かの判断となるということです。結果は? 富の再配分と世界の経済秩序の無用の混乱と破壊。

 そこで、分析に入ります。なぜデリバティブ取引が問題なのか? 実務をやっていない人間にはわかりにくい課題ですが、遠目から判断しましょう。

 判断のための基準として三点あげましょう。デリバティブは、第一にGDPの増加に寄与しているか、第二にイノベーションの停滞に基づく成長の終焉――ゼロ成長経済――という現代的課題にどう対処しようとしているか、第三に資源と環境の制約という地球規模的的課題にどのような答えを用意しているか、の三点があります。

 第一のGDPの増加への寄与、これはアベノミクスがクローズアップしてくれたテーマでもあります。金融緩和しても、実体経済にお金が回らず投資や生産、雇用や消費の増加という結果をもたらさなければ、株式、為替等の金融商品の相場を上げるだけで実体経済へは何の効き目もないという視点です。

 まず、デリバティブ取引を定義しましょう。それは、金利、通貨、株式債券、商品等といった本源的資産の時間、空間における価格差を利用して、オプション、先物、スワップ取引とその組み合わせに基づいて行われる種々の金融商品の売買です。安く買って、高く売る。まさに裁定取引(アービトラージ、利鞘稼ぎ取引)で、こうした取引に対するニーズは過去の経済活動により蓄積された富の増殖――資産運用――として強力なものがあります。

 このような取引を可能にしたのが既述のような90年代、IT技術、種々の国家規制の撤廃、証券化やデリバティブ等金融技術の革新、会計情報のグローバル化(当時はIAS)に基づくアメリカ主導のグローバリズムでした。

 いくつかの推測を重ねての判断になります。(1)デリバティブ取引の主役は大方が金融機関であること、(2)その取引額(フロー)は巨大で、残高ベースでも世界のGDPの10倍超に上ること――BISの取りまとめによれば、リーマンショック直前、2007年6月末時点の契約残高516兆ドル、世界のGDP総額45兆ドル――、(3)売りと買いの取引が成り立つことからすればその多くはゼロサムの結果をもたらすこと等を根拠に言えば、これは取引に参加したお金が金融市場のみを動き回ってリターンとロスを配分する、いわば金融賭博市場とも言うべき性質のものではないかということです。

 誰がロスを引き受けるかといえば、資産運用プレッシャーのもとで、デリバティブ取引等を仕掛けられた経験の浅い資産運用者――年金基金、投資信託、公的機関、場合によっては通貨防衛の政府等――です。そして、こうした過去の富の蓄積の再配分の結果が貧富の差の拡大となります。本書に述べた「お金を活かして使う」という金融の本質とは、どれほど隔たった金融のあり方――「リスクの高い取引に預かり資産を注ぐ」――であるかを考えるべきです。

 具体的には、個々の有名企業のデリバティブ取引に伴う損失や倒産例は枚挙に暇がありませんし、また、繰り返しになりますが、マクロ経済ではリーマンショックに伴う世界経済全体への巨大な信用収縮をもたらし、世界は現在もその痛みの中にあります。

 他方、金融における健全な収益の源泉はGDPの増加で、これに利子あるいは配当という形で寄与分の配分にあずかるというものです。この二つの金融のあり方を慶応大学の池尾和人教授は「裁定型金融」と「価値創造型金融」と命名し、90年代以降の前者のあり方は収益機会のフロンティの消失とともに追い詰められて、サブプライムローンのような危険な金融商品の開発に追いやられたと分析し、「価値創造型金融」への変身が課題だとしています(『裁定型業務の限界超えよ』日本経済新聞「経済教室」2008.9.18)。

 第二の視点ですが、金融がマネーゲームに走るもう一つの背景は、既述のようなGDPの増加機会が低減し、実体経済にお金を回しても期待される利回りが得られないことです。

 先進国のゼロ金利状況はゼロ成長の裏返しの表現で、成長機会がなくなった地域では金融業務が成立しなくなったという結論に至るのかも知れません。確かに日本では、産業空洞化の中で新規投資は海外に行き、国内は借換え融資のみ。業績低迷企業へは返済据え置き(リスケジュール)対応とすれば、金融はいわば「開店休業」状態です。

 こうした金融の閉塞状況をどう打ち破ればよいのでしょうか。これが金融機能の革新という大きなテーマに展開していきます。金融産業がグローバリズムとは異なる、どのような知識集型産業に脱皮すべきかです。

 ここでのささやかな解の一つが、本書『1枚のシートで経営動かす』の内容で、企業の再生や育成に汗をかく、そのための金融庁の言う「事業性融資」のツールたり得る「コンサルテイングシート」の提示です。

 第三の資源と環境の制約という視点になりますが、これは第二の視点を方向付けるもので、先進国の経済の行き方を決めるものになります。この段階でヒントを与えてくれるのが日本大学水野和夫教授の『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書、2014)です。

 イノベーションの停滞はミクロ企業における付加価値の低迷を引き起こし、結果、マクロ経済においてもゼロ成長を生じさせます。先進国のこのようなゼロ成長下で、グローバル金融資本が蓄積された富の強引な集積を行えば、まさにマルクスの『資本論』(1867)の世界の再現で、収奪され抑圧された貧者の反発を引き起こし、安定的な経済社会は望めません。

 余談ながら、私がリーマンショック直後に出した『禅資本主義のかたち TKCモデルの研究』(東洋経済新報社、2008年)はまさにそのような問題意識の下で、なぜ、プロテスタンティズムの影響下に生まれた欧米資本主義がこのような「倫理」無縁の資本主義へと変質したのかという素朴な疑問に答えようとして、「強欲」無縁の経営を研究したものでした。「禅資本主義」というネーミングは欧米キリスト教文化への疑問を込めたものでした。

 本論に戻って、先進国の人口は世界人口72億人の18%しか占めていないのだから、8割強の発展途上国の経済成長をフロンティアとして経済成長は可能だという議論を疑問視するのが資源と環境の制約です。

 ここ数年、世界を襲っている温暖化と寒冷化の異常気象をはじめとする異変は、自然が悲鳴を上げているということで、「残り8割の現状のような先進国化は、地球環境がもたない」ということだろうと思います。

 そこでサスティナブル経済、サスティナブル社会というテーマが登場し、これを支えるイノベーションが「脱成長主義経済」「均衡経済」のエンジンとなるということです。

 結論です。経済行為と倫理は切り離せないのです。「浮利を追わず」「三方良しの経営」「道徳経済合一説」等々の経済倫理が示すように。これに対して、「市場ルールに則ってさえいれば、利益に善悪はない」というグローバル金融資本主義の価値観は修羅の価値観です。

 経済行為と倫理――人間と永遠――には元々、横串が入っているのです。言い換えれば、人間と経済行為は「永遠の層の下で」評価されるということです。

 そして、本稿の前後で述べている人間学がこの評価を引き取ります。ここで話しは止めるべきでしょうが、言わなければわからない人のために言いますが、釈迦もイエスも人間に対して、永遠が天国と地獄という形で存在すると明言しています。修羅と地獄に生きれば永遠のレベルでその実を刈り取るのです。経済・金融の根底にある人間学の帰結を甘く見てはいけません。