『アートにとって価値とは何か』(幻冬舎)の著者で、世界的な現代アーティストの会田誠氏や山口晃氏などを擁するミヅマアートギャラリーを主宰する三潴末雄氏と、『なぜ今、私たちは未来をこれほど不安に感じるのか?』の著者・松村嘉浩氏との対談・後篇です。『なぜ今、私たちは~』は超長期的な視点での経済・歴史分析の本ですが、その最終章は、今の時代の日本人へメッセージでした。その執筆の裏にあった意図が、アートの視点からの補助線で浮かび上がります。

日本人になじみの薄い絶対神の世界観とは?

アートも金融も“限界”を迎えている

松村 三潴さんの『アートにとって価値とは何か』を読ませていただきました。現代アートの世界では、米国で作られた価値観以外は認められない状況にあるということ、そして日本人のアートは西洋人にとって“土人のみやげもの”、つまり、自分たちの世界にない物珍しいものでしかないという、極東の日本の置かれている立場がよくわかりました。

三潴 アートの世界は、極めて排他的です。欧米のコンテクストに乗らないものはまったくと言ってよいほど評価されません。抽象表現主義が宗教的背景をもつように、周辺的なものを一切認めない排他性も、実は彼らの価値基準の底流に流れている一神教的な宗教観が大きく影響していると言っていいのではないかと思います。

松村 そうなんですよね。ユダヤ教やキリスト教と言えば“聖書”ですが、欧米の一神教の経典である『旧約聖書』や『新約聖書』の“約”というのは、絶対神とちっぽけな人間との“契約”を示したものなんですよね。
 旧約聖書では、神との契約を人が守れば“契約”した人を保護し、世界を“契約”した人のものにすることを神が保証します。逆に神と“契約”しない異教徒は、たとえ善人でも神は救わないし、過酷な運命(最期の審判)に遭うことになります。そして、もしちょっとでも契約を破るようなことをすると、神はカンタンに人の命を奪う。“契約者”以外は絶対に保護しないし、契約違反したらものすごい罰則というのは、保険会社のようなイメージですね(笑)。

三潴 たしかに(笑)。契約者以外は絶対に保護しないという“排他性”がある世界観というわけですね。

松村 そうですね。日本人の感覚では、“神様”というのであれば、契約者限定といわずに人間みんなを相手にしてくれてもいいんじゃないかと思いますが、そういうわけではないのです。

三潴 自分ところの神様が絶対という考え方は、米国がベトナム戦争で痛い目にあってナショナリズムの多様さを思い知らされたはずなのに、9.11後、アフガニスタンやイラクとの戦争でさらに過ちを繰り返すという姿勢にも表れていますね。

松村 そうした戦争は、現代の十字軍みたいなものですよね。なんだかんだ言って、キリスト教の国とイスラム教の国の戦争ですから。日本人は基本的に欧米メディアの情報しか見ないので、キリストが善でイスラムが悪というハリウッド映画的な世界を想像しがちですが。

三潴 “周辺”という言葉でしたか、松村さんの本でも世界システム論に絡んで触れられていましたが、植民地支配において欧米一神教が他の信仰を一切認めず、武力で征服した民族の信仰や文化を破壊して改宗を強要してきたという歴史があります。それも“排他性”を証明していますね。

自由意志をもったAIは“神の子”になるのか?

松村 あともう一つ重要な点は、“契約”である以上、個人の“自由”な意志が尊重されなければならないということです。神と契約する、しないは個人の自由な意志というわけです。“新古典派経済学”はある意味“自由絶対主義教”です。カンタンに言えば、なんでもかんでも市場参加者の“自由な意志”に任せて“市場”を作れば、必ず市場は均衡するので問題は起きない。なぜ均衡するかといえば……。

三潴 全ては全てに依存し、この世に(絶対)神の意思ならざるものは一つとして存在しないから、でしたよね。

松村 そのとおりです。ちょっと脱線しますが、欧米一神教の“自由”な意志絶対主義が我々にとっていかに意味不明かというエピソードを一つ。『2045年問題 コンピューターが人類を超える日』で松田卓也先生がたいへん面白いことを書かれておられました。コンピューターが発展してAIが“自由な意志”をもつことになるのかどうかは、英米の学者のみが真剣に議論していると。日本人にとってはどうでもいい話なのですが、彼らにはものすごく重要なことなのです。

三潴 つまり、コンピューターが個人の“自由”な意志をもって“神と契約”してしまったらどうしよう? ということでしょうか。

松村 そのとおりです。コンピューターが“自由”な意志をもって“神の子”になってしまったら、都合が悪くなったからといってコンピューターを消去すべくコンセントを抜けなくなってしまうというわけです(笑)。欧米一神教の世界観ではコンピューターに人権?が発生するので、法律を変えなければならないと真剣な議論が始まるかもしれません。さらには、コンピューターが人?になるなら、それを創造した人間は一歩進んで神の仲間入り?という、いよいよ日本人的にはついていけない議論もあるようです(笑)。

三潴 それはすごい……。かつて226事件の思想的リーダーだった北一輝が、人間が進化したら類神人になると書いていましたよ。

松村 思わず笑ってしまいそうになりましたが、彼らとしてはガチなので、笑ったら大変なことになるかもしれません……。欧米で進む最先端のAIの発展が、欧米のイデオロギーのベースを成す一神教の世界観を自己破壊することになる可能性もあるのです。
 このAIの話で伝えたかったのは、“新古典派経済学”の話と同じく、最先端のテクノロジーを研究している学者も、欧米においては古典的な一神教の思想に縛られているということです。このへんは、日本人には本当によくわからない部分でしょう。

アートも金融も“限界”を迎えている

三潴 AI研究の矛盾ではありませんが、私が自著で主張しているように、西欧のアートが基準とする一神教的な価値観や近代の合理主義が限界に達しているのは明らかです。一見雑多でヴァナキュラー(土着的)ですが、奥底に現代的な普遍性を抱えた表現が、日本だけでなく非西欧圏のアートで同時多発的に開花してきています。それは、20世紀の米国を中心にしたモダニズムの形態とはまったく異なるものです。

松村 なるほど。アートでも限界を迎えて、変化が起こっていると。

三潴 ええ。ただ、こうした認識は今に始まったものではありません。1980年代の初めにニューヨークのMOMAで開催された“プリミティビズムとモダニズム”という展覧会で、西洋のモダニズムのアートとアフリカなどの先住民のプリミティビズムアートが驚くほど共通したものであることが示されているのです。 人類史的な長い目で見れば、現代アートというのは、ルネッサンスや近代写実主義を経て形成された西欧の芸術が一周まわり、キリスト教化されるローマ以前のギリシャやケルトの神話的世界やアフリカの部族の自然への畏怖から造形された世界に回帰しようとするムーブメントではないかと思います。つまりは、一神教的な価値観の肥大化や近代の合理主義の果てに自由な発想ができなくなった現代西欧人が、はるかに想像力が豊かで著作権もない古代人の発想を拝借して、今風にアレンジしたり、テクノロジーで素材を置き換えているだけと言えるのです。

松村 同じことが経済のサイドにも言えます。絶対神を前提にした世界観はすでに限界を露呈しています。新古典派経済学は、一見科学的で実は骨董無形な神学的な世界観を理論背景に、なんでもかんでも“自由”にして“市場に任せて”時価会計すればいい、と金融業の拡張を続けてきました。その結果、破たんをきたしたのがリーマンショックなのです。
 自著では、議論が煩雑になるためサブプライム等の証券化商品の供給側の問題はあえて取り上げず、そういった商品の需要側の問題を中心に議論しました。しかし、需要の発生に合わせて投資銀行が供給側の極端な拡張をしようとしたのは、疑いのない事実。単純な話ですが、国債や株など市場メカニズムに任せて時価会計すべき伝統的な商品はともかく、本来は長期保有すべきローンを証券化して市場をつくり、時価に晒して“自由”に取引して、というのは本質的に無理があったということです。

三潴 なるほど。アートと違い、リーマンショックという明確な臨界点があったわけですね。

松村 そのとおりです。ですからリーマンショック直前までしゃかりきに進めていた時価会計の導入ですが、今やすっかり音無し。そして、全面時価会計導入というシステムの完成が見えた瞬間がピークで崩壊したというのも実に皮肉な話だと思います。

今、日本人が知るべき“日本人”が果たすべきこと

松村 三潴さんは、限界が見えてきているとはいえ、依然として欧米の一神教的世界が支配する現代アートの世界に疑問を呈しつづけていらっしゃいます。その一環として、会田誠先生や山口晃先生や宮永愛子先生といった、日本の土俗的な風土や歴史に根差した表現を突き詰めるようなすごい作家を発掘し、育てていらっしゃる。それだけでなく、世界で勝負するという本当にチャレンジングなことをされているわけですが、日本のアートが果たすべきことは何だとお考えですか?

三潴 日本のような非西洋のアニミズム的・多神教的な文化圏が共有してきた原理を明確にして、一神教的な原理に偏り過ぎている西洋近代文明のあり方を、真の意味で中立的なものへ拡張していくことでしょう。

松村 なるほど。日本と西洋近代文明では、相容れない部分が多くありますからね。

三潴 松村さんが書いていたように、日本は世界システムに飲み込まれることなく、縄文時代以前からの“土人”としてのプリミティブな感性をかろうじて維持しています。それでいながら先進資本主義国という極めて稀有な存在なのです。グローバリゼーションや一神教的世界観が限界を迎え、人類芸術全体の多様性と普遍性が見直されていくなかで、日本人が果たすべき役割は極めて大きいものだと信じています。

松村 先日、Facebookに一つの記事をシェアしたところ、大きな反響がありました。「日本だけ、ずっと日本。このことの凄さを、学校では教えないんですよね……」という記事で、日本だけがずっと国名が変わらず、「日本」であることが世界史の対照年表に示されている、というものでした。

三潴 日本人が希有な存在であることを視覚的に捉えられて、わかりやすい図ですよね。高校で世界史の授業があった人にはお馴染みの年表ですが、その反響が大きかったということは、多くの日本人が日本に誇りを持ち、これが続くことが大切だと認識しているということでしょうか。

松村 そのとおりだと思います。しかしながら、経済の世界は、西欧の権威の影響から逃れるどころか、盲従してしまっているのです。私が自著で批判したように、日本人には理解不能な(絶対)神を前提にした世界観で、しかも欧米自身がすでに「間違いだった」と自覚しているような新古典派経済学を理論的な支柱にして、政策当局は暴走しています。ノーベル賞の学者が言うのだから間違いない、という具合で。

三潴 なるほど。西欧の権威、賞の権威の両方の影響があるわけですね。

松村 最近、自著のファンになってくれた方々とお話しする機会が増えているのですが、やはり一般の方々には金融政策はよくわからないのが実情です。そう考えると、とんでもない副作用があるかもしれない量的緩和政策は、一般の人がわからないことをいいことに力わざで進めているという悪意すら感じます。経済・金融の世界も本当はおかしい、キケンだということに気が付いている人は、たくさんいるはずです。しかしながら、彼らの多くは大企業のサラリーマンであり、組織には逆らえない。そのため、大きな声にはならないのです。

最後に

松村 自著に関していろいろなフィードバックをいただくのですが、第6章の「日本人にしかできないこと」に関しては、あまり評判が良くない部分もあります。それは、なぜ日本人なの? という部分に関して上手に表現できていないからだと思います。
 日本人が一神教の世界に飲み込まれることなく先進国で唯一、昔からの伝統的世界を残す民族、三潴さんのお言葉では“土人”(笑)であり、我々は限界を迎えた一神教的世界に対して対案が提示できる民族であるということを表現したかったのですが、それをはっきり書くと、どうしても宗教を書かなくてはいけなくなってしまう。そうすると、ヘンな誤解を生んでしまうのがコワくて……。

三潴 それは仕方ないのではないでしょうか。この手の話は日本人にはなじみがありませんから。例えばユダヤ教というと、日本に氾濫しているようなユダヤの陰謀といったようなインチキな話と混同されることになりがちですからね。1世紀前にデュシャンが次のようなことを述べています。
「我々には貨幣に代わるものがたくさんある。貨幣としての金、貨幣としてのプラチナ、そして今や貨幣としてのアートだ」
 こうしたことが現実化した現代アート界に於いて、何としてでも日本のアートを欧米にさらに強く認めさせたいものです。

松村 三潴さんの“日本人アートは土人のみやげものじゃねぇ!”という“戦う姿勢”に感銘を受け、今回、おかげさまではっきり言うことができました。本当にありがとうございました。
 

三潴末雄(みづま・すえお)
アートも金融も“限界”を迎えている

東京生まれ。成城大学文芸学科卒業。1980年代からギャラリー活動を開始、1994年ミヅマアートギャラリーを青山に開設(現在は新宿区市谷田町)。2000年から活動の幅を海外に広げ、国際的なアートフェアに積極的に参加。消費文明の激流に抗した毒と批評性にあふれた作家を紹介、「ジパング展」等の展覧会を積極的にキュレーションし、日本、アジアの作家を中心に世界に紹介し続けている。2008年に北京(現在は事務所)、2012年にシンガポールにギャラリーを開設。2014年『アートにとって価値とは何か』を幻冬舎より出版。