人間学も、まとめのステージに入らなければなりません。今後、3回をまとめのメッセージとしたいと思います。今回は、副題を「自己超越の人間学」の要点としました。概要は下図のとおりです。

 人間学の要点として、(1)「成功」要因としての「自己実現」、(2)成功者が失敗者に転落する構造、(3)倫理道徳というステップ、(4)「自己超越」が必然である理由とその方法、この4テーマを整理します。

 ここでの最大のポイントは第(2)ステップの失敗、挫折の位置づけです。これを人生におけるイレギュラーにして不運な出来事で、文字通りの失敗と受け止めるか、あるいは別の受け止め方があるのかということです。

 これを言い換えれば、失敗や挫折は苦しみと結び付けて理解するときに、人生におけるその意味がわかるということです。

 釈迦は人間に本質的な「苦しみ」からの脱却の営みを普遍的、一般的なる思想と方法論として整理しました。「四苦八苦」という苦しみの存在とそこからの解脱を求めて。

 本稿では成功追求のプロセスとしての自己実現、あるいは自己実現の結果としての成功と展開したわけですから、そこに失敗や挫折が登場してくる理由とそれが自己超越にどう結び付くかを検討しなければなりません。

 それはさほど難しくありません。結論を先取りして言えば、これまでに述べて来たように人間の歪みは、成功によって驕りを増幅させ、それが失敗や挫折を招く(注1)。そして、失敗、挫折による苦しみが人間を反省に導く。失敗がない場合は老病死への直面が人間を同じ反省へと導きます。生――失敗や挫折――、老病死に伴う苦しみが人生を自己超越に導くのです。

 理解を深めるために逆の問い方をすれば、(2)失敗のステップ抜きで(1)自己実現による成功→(3)規範→(4)自己超越、あるいは(1)自己実現による成功→(4)自己超越という経路があり得るかということです。これはある意味で人生の大テーマ、宗教の大テーマです。これまで述べて来たことからわかるように、それはないのです。

 なぜなら、自己超越とは生存レベルの転換(注2)で、そこに目を開かせるのは「歪みへの深刻な気づき」だけです。失敗や挫折に伴う苦しみが、人間の歪みあるいは「破れ」に気づかせる。ここが重要です(注3)。

 第(3)ステップについて言えば、普通の人間学はここに言及して終わります。「転ばぬ先の杖」として規範、すなわち倫理道徳を持つようにと。これはこれで良いのです。良いのですが、大方の場合は自分の外に規範を持つことになり、内面とのギャップ――偽善あるいはその苦(にが)さ――が生じます。逆に、本書に書いたように、意識の上だけ規範と同一化して、自分の実体の歪みに気づかずに過ごすこともあります。

 いずれにせよ、この段階では自己実現のメロディが大き過ぎて、静かなる自己超越の世界のメッセージはほとんど耳に入って来ないのです。

 結果、人間の本質に対する理解――規範に従うどころか、これと真逆の心がある――には思いが至らない。これは自己超越のひとつ手前のステップ、自分の真の姿に気づかぬ自己実現レベルで自己超越を学ぶといった段階の姿です。

 このように試行錯誤しつつ、いろいろと考えても、結局は苦しみの必然性という、あまり嬉しくない結論に到達します(注4)。苦しみとは心の痛みのことで、人間は痛みに耐えられませんから、ここからの脱出を求めます。それが超越につながるのです。

 自己超越という人間の必然的な到達点からすれば、苦しみはそこに至るための不可欠の動力源で、これなしに超越は得られない。これまた人間と人生の否応なしの事実なのです。したがって、失敗や挫折は人生に仕組まれた人間変革の得難い機会であると受け止めるのです。

 何ということか! 人間は自らの致命的欠落に気づくのに一生を費やすのです。一生を費やして気がつけば良いが、一生を費やしても気づけない人がいるかもしれません。とすれば、ここでは不幸が幸福であり、幸福が不幸になります。永遠の視点で見れば、禍福が逆転するのです。

 余談ながら、自己実現も自己超越も貫いて存在するのは「探求」です。「自己実現≒探求」が成功要因としましたが、自己超越の世界でも探求は続くのです。とすれば、「探求」は「超」成功要因かもしれません。

 「探求」は宇宙と人間の本性でもありますから、人生のすべてのプロセスを貫いて存在するのは当然なのです。

 さて、結論です。好むと好まざるとにかかわらず「苦しみ」が人生に組み込まれていること、それ故に人生における「苦しみ」を受容すること、その気づきと深掘りが自己超越に導くこと、気づきと深掘りの典型的な二つの道――代表は仏教とキリスト教――が示されていること、いずれにせよ自己超越に導く「人生の秘密」――失敗と挫折という包み紙にくるまれた自己超越への道――が人間の目には隠されていること、です。

 苦しむべき汝は苦しみへ行け。
 死すべき汝は死へ行け。
 人は幸福ならんがために生きてはいない。
 苦しめ。死ね。
 しかし、汝のなるべきものになれ。
 一個の人間に。

 これはフランスのノーベル賞作家、ロマン・ローラン(1866~1944)の代表作『ジャン・クリストフ』の一節です。

(注)
1.成功者の失敗の事例は、大体において自己の専門分野の技術的領域――政治家なら政治、経営者なら経営、研究者なら研究、芸術家なら芸術等々――における失敗ではなく、人間的領域における失敗です。

 成功が驕りを招き、驕りが油断へと展開し、潜んでいた欲望が油断につけ込み、判断ミスを生じさせ、遂には致命的なスキャンダルに至るといったものです。失敗の根っこにあるものは欲望、それが成功に伴う驕りによって解放されるのです。

2.人間の生存の姿には三つのレベルがあります。(1)本能動物としての生存レベル(「人間未満」と言うべきか、最近はこういう人が増えたような気がします)、(2)知的動物――知性を操る動物としての人間――として社会的生存のために頭を使って生きるレベル(しかし、あくまでも自己中心)、(3)精神的存在として愛情、責任、正義等々の精神的価値に導かれて生きるレベルです。

 人間生存の常態は第2レベルにあり、このレベルにあって第3レベルはせいぜい観念としてしか存在しません。この第3レベルへの転換が本稿のテーマである自己超越です。この第2から第3レベルのへの転換には超自然的な「構造的変化」が必要というのがキリスト教の示すことです。

 例えば、イエスはこの生存レベルの転換を「新生」――御霊による――と言っています(ヨハネによる福音書3-3,5)。知的動物としての人間に精神的実体が入り、人間が新たな存在として「生まれ変わる」。これは生存の同一次元の延長線上には起き得ないことです。これに気づく契機が「破れ」の認識で、それをもたらすのが失敗や挫折が導く反省だということです。

3.自らの文脈を破棄するような言い方かも知れませんが、必ずしも成功や失敗という人生のドラマと自己超越とを結び付けなくても良いのです。

 成功や失敗以前に、人間の「破れ」や人生の不条理に対する苦しみを抱えている人間には、その苦しみによって自己超越という生存レベルの転換があり得るということで、要は苦しみの自覚なしにはそのような生存レベルの「構造的変化」は起こりえないと言っているのです。

4.現実的には注2に書いたような、第2と第3のレベルはいろいろな意味で区別がつきにくいのです。自己超越という概念によって両者の一線を引いて来た文脈からすれば、その一線部分を拡大して、その最初の分岐の様態――第2レベルから第3への転換のダイナミズム――を示す。そこに準主役として苦しみが、主役として「歪みへの深刻な気づき」が登場するということです。