長銀の凋落は
外側からどう見えたか

かつて内幸町にあった長銀の本店

 話は前後するが八尋さんが長銀を退職した1997年3月時点で経営危機を感じるような状況はあったかと質問すると、そういう気配はなかったという。

「平成元年に入社した同期のなかで私は3番目か4番目に辞めた人間で、1番目はいまや有名人の林修さん、2番目は国連に行った方。この2人は入社してすぐ辞めたので、ある程度在籍してから辞めた人間としては、私は最初の1人目か2人目でした。同期会で転職すると伝えたら『なんで長銀辞めるの。馬鹿じゃないか』という反応で、上司に相談したときも『メーカーなんかに行くの?』とすごく下に見られました。私が辞めた数ヵ月後くらいから、急速に状況が悪くなったのだと思います」

 ソニーで活躍していた1998年10月に長銀は経営破綻した。過去に所属していた企業の転落は外側からどう見えていたのか。

「本来の長銀マンと言われている人たちはトレンドに乗らず他人の情報を信じず、徹底的に足で歩いて人に会い、それが本当かどうかを確かめていたのですが、調査力の長銀としては情けない。そういう印象で非常に残念でした」

 長銀は1997年7月にスイス銀行(SBC、後に合併でUBS)と業務提携し、自己資本の増強と金融技術の習得などノウハウ取得に要する期間の短縮を図った。しかし、同年11月にSBCの意向でSBCを引き受け会社とする増資が無期延期になった。

 さらにSBCとの契約では「ディストレスワラント条項」が付け加えられていた。最後の長銀頭取であった鈴木恒男氏は著書『巨大銀行の消滅』で次のように説明している。

「具体的には、長銀の株価が三日間以上にわたって五〇円を下回るか、あるいは、二〇日以上にわたって一〇〇円を切った場合には、合弁で設立する証券会社など三社の長銀保有株をSBCに譲渡することを約束するという内容だった」
(鈴木恒男『巨大銀行の消滅』東洋経済新報社)

長銀凋落の背景を八尋さんはどう見ていたか

 そして1998年6月5日、月刊『現代』7月号の広告に長銀破綻に関する記事の見出しが掲載され長銀の株価が急落すると4日後の6月9日、SBCとの合弁で設立されたいわば身内である長銀ウォーバーグ証券は大量に長銀株の売り注文を出した。その真相は「いまだ藪の中」(『巨大銀行の消滅』)だが売りが売りを呼ぶ状況となり、結局ディストレスワラント条項によって長銀ウォーバーグ証券など合弁会社2社の経営権はUBSに移る結果となった。

「SBCとの提携交渉を担当したのは海外留学経験やウォールストリートで働いた経験のある人たちでしたが、私の印象としては何度もSBCに足を運んでいないと感じました。もし仮に自分が担当者だったらSBCはもちろん欧州の銀行をくまなく歩き、どんな銀行かを徹底的に調べたと思います。契約内容についてもリーガルファームを使ったり、もっと多くの意見を聞いてどんなインパクトがあるのかを徹底的に詰めればよかった」

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