ヤマトグループが絶え間なく新サービスを投入できる理由Photo by Yoshihisa Wada

 ヤマトホールディングスは、3年後の2019年に創業100周年を迎える。これを人に話すと「そんなになるんですか」と驚かれる。イノベーティブな企業イメージの背景には、宅急便を始めてからのさまざまな商品とサービスの革新性があるようだ。ヤマトグループの革新力は、いかにして生まれ、継続しているのか。それは他の企業にも敷衍できるものなのかを考えていきたい。

宅急便はヤマトグループにとって2回目のイノベーションだった

 日経リサーチが9月に発表した「ブランド戦略サーベイ 2016年版」で、ヤマト運輸は総合得点で初めて首位を獲得した。報道などによれば、再配達を減らす取り組みが好感を呼び、商品やサービスへの愛着度や知人らに勧めたい推奨意向で大きな得点を得たという。首位になったことはもちろんだが、お客さまの厚い支持と信頼をいただけていることがなによりも嬉しい。

 読者の皆さんにもご同意をいただけると思うのだが、ヤマトホールディングス、特に傘下のヤマト運輸は、「非常にイノベーティブな会社」というイメージを持たれている。それは当時の社長であった小倉昌男さんが創造した「宅急便」があまりにも革新的な事業であり、実際、これが好印象の源泉になっている。

 しかし宅急便は、ヤマト運輸にとっては2回目の大きなイノベーションだったことは意外に知られていない。ヤマトグループの革新性を考える場合、そこから振り返ってみなければならない。

 当社の前身である大和運輸が創業したのは1919年、大正8年である。第1次世界大戦による好況に陰りが見え始め、近代の新興財閥の雄であった横浜の茂木商会や、その機関銀行である七十四銀行が倒産する前年のことである。

 当時の日本には、トラックと呼ばれるクルマは204台しかなかった。そうしたなかで創業者である小倉康臣さんは、4台のトラックを用意して貸切輸送を開始した。4年後の大正12年には三越百貨店との商品配送契約を結び、事業の基礎を固める。

 当時の三越百貨店との契約が、どれほどの大契約であったかを、今の人はイメージしにくいかもしれない。今風にたとえるならば、従業員が数人のアプリ制作会社の作品が、通信キャリア大手に採用されて事業基盤を固めるようなものだ。

 そこには、「三越百貨店の荷を担える高いサービス品質」があった。

 その上で康臣さんは、1929年(昭和4年)に東京と横浜間の定期便運送事業を開始する。これは、わが国で初めての民間運送事業者による路線事業だった。

 それまでは貸切事業で、三越のようなお客さまがいて、その荷物だけを運んでいた。それに加えて、さまざまなお客さまの荷物を集めて定時定区間で運ぶ「混載輸送」という新しいビジネスモデルを興したのである。

 配送ネットワークはその後、関東一円に広がり、大和運輸は、運送業者として圧倒的な存在感を持つようになる。終戦後、進駐軍が真っ先に大和運輸を協力事業者に指名したのも、その実力を十分に認識していたからである。

 当時の輸送事業の常識をひっくり返したイノベーションを、康臣さんがやっている。そして、そのビジネスモデルが多くのトラック輸送業者の基本的なビジネスモデルの1つになっていく。

 しかし康臣さんのイノベーションが注目されることは少ない。それはなぜかと言えば、単純には昌男さんの宅急便の衝撃力の大きさもあるが、康臣さんのイノベーターとしての成功が、次のイノベーションのサイクルに結びついていなかったきらいがあるからだ。

 これがヤマト運輸の革新性を考える際の1つのポイントになる。つまりイノベーションは興したけれど、イノベーティブであり続けることはできなかった。連続性のある革新的な風土を育むような手当てはなされていなかったのである。