立ちふさがる半沢商店の壁

 東京進出にあたって、まず幸一が挨拶に行ったのが半沢商店だ。場所も東京出張所から1キロほどしか離れていなかった。

 夜行列車に乗って足繁く通いはじめたのは2年前のこと。室町の工場でコルセットの自社生産ができるようになったこともあって、しばらく前から取引は途絶えていた。

 半沢商店にとって、和江商事との取引は小さなものにすぎず、気にもとめていなかったが、しばらくぶりに半沢社長の前に現れた幸一は以前の彼ではなかった。

「半沢さんにはご挨拶をしておかないといけないと思いまして。今度、うちは東京に出張所を置かせていただきます」

 かつて頭を下げて仕入れにやってくるだけだった青年が、今度は自分のライバルとして東京進出を企図しているという。そしてこうして堂々と、挨拶に、いや宣戦布告をしにやってきたのだ。

 半沢社長の顔が一瞬こわばったが、それは本当に一瞬だけだった。

 やがて顔に冷笑の表情が浮かんだ。

 (やれるものならやってみろ)

 言葉に出さずとも、そう雄弁に語っている。

 半沢のこの反応には理由があった。

 そもそも当時の東京では、大阪の商品を“ハンモノ”とか“サカモノ”と呼んで蔑視する風潮があった。大阪は今の中国のように、イミテーション製造で知られていたのだ。

 京都にしても、呉服は超一流であったが洋装品では大阪と似たりよったり。要するに関西の品物は二流品というのが通り相場だった。

 『ワコール50年史「ひと」』にも、

「洋品雑貨は東京が本場で関西ものはバチもの(二流品)だから、手をつけないほうが利口ですよ」

 という当時の世評が紹介されている。

 おまけに“東京のカタびいき”という言葉もある。一度取引ができるととことん付き合い、新参者には聞く耳持たないそっけなさがあるというわけだ。

 (そこらの小売店では通用しても、大手百貨店が相手にするはずがない)

 半沢社長の冷笑にはそうした意味が込められていたのである。

 〈「和江商事は昨日まで小僧だと思って取引してやれば、それをいいことに生意気だ。折り畳んで京都に返してしまえ」とことごとく、和江商事の商売を妨害した〉(塚本幸一『乱にいて 美を忘れず』)

 そんな“東京のカタびいき”以上に、幸一の東京進出を阻むとんでもない高い壁があった。半沢商店の接待攻勢である。

 徹底的に贈答や接待をし、相手の担当者は一財産築くことができたのだ。一度その味をしめたら忘れられない。接待づけにされた担当者がいる間、半沢商店は安泰だった。

 藪中や畑中は、

「毒を以て毒を制すです。こちらも接待しないと」

 と言ってきたが、幸一はそれを許さなかった。

「正々堂々、誠意でゆけ」

 と諭した。

 ワコールの社史などを見ると、ワコール伝統の“誠意と商品本位”というセールス手法はすでにこのころから幸一の中では絶対だったのだという美談として語られている。

 もちろんそうした気持ちはあっただろうが、ない袖は振れなかったというのも事実だったと思われる。要するに、接待しようにも接待費など捻出できる財政状況ではなかったのだ。

 そもそも東京出張所にしても、社宅など確保できなかったから、藪中たちは借りた事務所の天井を抜き、屋根裏のネズミと一緒に寝て、飯盒炊爨(はんごうすいさん)で生活するありさまである。

 本社を移し、不動産を買い、東京出張所を開設するなど、一見順調そうに見えている裏で、実は和江商事に再び倒産の危機が訪れていたのである。

(つづく)

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