よくある光景~むかし、むかし中国で

 昔、夏の国に気の弱い王、管直がいた。彼はある武芸に秀でた若者、今若を仕官させようとした。が、今若は「夏?宿舎がボロいし、給料も安い。誰が仕官するものか」と断った。王は大いに嘆き、国事に手を付ける気力を無くした。ときどき、悪人顔の王族を締め上げることはしたが、いつも嘆くことしきり。とうとう病から皇太子に位を譲った。王の嘆き「今若はろくでもない」はいつしか、「今どきの若い者は本当にろくでもない」となり中国のみならず、アジア全域そして世界中に伝わった。北アフリカの四角錐状の巨石墓には王の嘆きを記した石版が保存されている。以来、年長者は誰もが言うようになり、今に至るまで伝わっている。

 昔、楚の国に、自勝という男がいた。彼は勉強熱心であり、優秀さで知られていた。そこで楚の王は彼を侍従として招こうとした。が、自勝は自分の才能に自惚れていたので「侍従ではなく侍従長としてなら雇われてもいい」と答えた。すると楚の王は「なんとわがままな男か。命は取らぬが百叩きの刑にせよ」と命じた。それだけでは腹の虫が収まらなかったため自勝の名前にひっかけ、自分の都合のみを優先するありさまを「自分勝手」と呼ぶよう布告した。自勝はこれを深く恥じて山にこもり、以来彼の姿を見たものはいなかった。「自分勝手」は今に至るまで伝わっている。

 昔、漢が崩れた後、魏の国に司馬懿という秀才がいた。魏の皇帝、曹操はこの司馬懿を仕えさせようとした。だが、司馬懿は曹操の魏国が今で言うところのブラック企業であり、仕官する気になれなかった。しかも、ポストは文学博士。自勝の侍従より、はるかに下級で薄給だった。司馬懿は今若と同じように逃げようとした。

 それを察した曹操は命令文を書き、使者に渡した。

 魏武及為丞相、叉辟為文学豫、勅行者曰、若復盤桓、便収之、帝懼而就職
(超意訳:もしこの就職話、断るようなら監獄にでも入れておけ。1年も拘禁しておけば多少気も変わるだろ)

 この話を聞いた司馬懿は曹操を大いに恐れた。これは国家の罠だろうとか、使者の脅し文句を記録すればその後無罪放免になるだろうなどと考える気にもなれず、節を屈して仕官することにした。ただ、悔しさのあまり次の詩文を書いた。

 曹操不当也、将来禍与
(超意訳:なんでこんなブラック企業に就職せにゃならんのだ。とりあえず、覇業には協力してやるが、いつか曹操の王朝を内から倒してくれよう)

 その後、司馬懿は曹操とその子孫の軍師となり、三国に分かれていた中国を統一した。曹操の子、曹丕は魏を建国し、皇帝となった。司馬懿の誓いは彼一代では達せられなかったが、孫の司馬炎は魏国から全権を奪い、西晋国を打ち立てた。司馬懿の蜀国・諸葛孔明との死闘は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」との諺となった。一部の三国志ファンにとって「げーっ!孔明!」は今に至るまで伝わっている。

 昔、晋の国に、李密という男がいた。彼は勉強熱心であり、優秀さで知られていた。そこで皇帝は皇太子付きの侍従として雇おうとした。だが、李密には病弱な祖母がいた。両親は早くに亡くし、彼が都に出れば誰も面倒を見る者はいない。そこで、李密は晋の賢者に意見を求めた。第一の賢者はこう言った。「自分を高く売るべきだ。侍従長くらい要求すべき」。

 だが、楚の自勝の例を李密は知っていたので、この賢者の意見は採らないことにした。第二の賢者はこう言った。「侍従になれば利権がいくらでもある。侍従として利を得て、それを祖母のために使ったらどうか」。そうかもしれないが、どうもすっきりしないのでこの賢者の意見は採らないことにした。第三の賢者はこう言った。「事情を正直に伝え、断ってはどうか。孝養こそが人のあるべき道、皇帝もそれは理解するだろう」。もっとも、と思った李密は皇帝に手紙を書いた。

 臣具以表聞辞不就職
(超意訳:せっかくのお話ですが、祖母の面倒とかいろいろな事情がありまして就職の件、お断りします)

 皇帝はこの正直さに感じ入り、李密に「祖母の面倒を見るために」と奴隷二人を下賜された。二年後、祖母が亡くなったことを聞くと改めて侍従として仕えるよう命令した。李密は皇帝によく仕え栄華を手にしたという。李密の名文は名文集『文選』に入り、仕官の断り状の見本として中国のみならず日本などにも広まった。そして李密が使った単語、「就職」は今に至るまで伝わっている。

  ※ここまでの話はフィクションです