あれだけの大騒ぎがまるで嘘であったかのように、日本ではウィキリークス騒動は十分な検証もされずに忘れられつつある。調査報道の旗手たちがウィキリークス問題の核心に迫る著書を次々と世に送り出している欧米とは大違いだ。『全貌ウィキリークス』(邦訳本は早川書房刊)を著した独「シュピーゲル」の敏腕記者2人(マルセル・ローゼンバッハとホルガー・シュタルク)は、ウィキリークスの創設者ジュリアン・アサンジと実際に共同作業に携わった報道パートナーである。そのアサンジを知る男たちに、リークの舞台裏からウィキリークスの組織的な強みと弱み、そして教訓まで縦横無尽に語ってもらった。(聞き手/ジャーナリスト 大野和基)

――ウィキリークスの創設者、ジュリアン・アサンジとはどれくらいの時間を一緒に過ごしたのか。

アサンジを知る男たちが今だから明かす!<br />ウィキリークスの内部闘争、脆さ、そして存在意義<br />~『全貌ウィキリークス』著者で、独「シュピーゲル」のマルセル・ローゼンバッハとホルガー・シュタルクに聞くマルセル・ローゼンバッハ
1972年生まれ。ドイツ最大の週刊誌「シュピーゲル」の記者。アサンジに密着取材を許された数少ないジャーナリストの一人。

ローゼンバッハ(以下、R):私は2010年7月からロンドンに10回以上飛び、ジュリアン・アサンジと時間を共にした。英「ガーディアン」紙の「バンカー」と呼んでいた編集室で、共同作業をするためだった。

 また、エリンガム・ホール(ロンドンから車で北東に2時間ほど行ったノーフォークにある、アサンジの支援者の一人が所有する邸宅)をはじめとする、彼の仮宿のいくつかにも訪問した。身柄引き渡し手続きの裁判にも密着取材した。彼が2010年の秋にベルリンにいたときも、じつは時間を共にしている。

シュタルク(以下、S): アサンジとは、暗号化されたチャットルームで数えきれないほど、やりとりをした。昨年の秋はほぼ毎日コンタクトを取っていた。アサンジはこの本(『全貌ウィキリークス』)の執筆のために、インタビューに応じ、彼の過去について話すことに同意しくれた。9月に、ベルリンで2日間インタビューしたほか、エリンガム・ホールに1月の後半に行き、週末はそこでアサンジと過ごした。外交公電リークの政治的影響については、早朝まで議論したことを覚えている。

アサンジを知る男たちが今だから明かす!<br />ウィキリークスの内部闘争、脆さ、そして存在意義<br />~『全貌ウィキリークス』著者で、独「シュピーゲル」のマルセル・ローゼンバッハとホルガー・シュタルクに聞くホルガー・シュタルク
1970年生まれ。「シュピーゲル」の編集局長。

――ウィキリークスの全貌を執筆するうえで、もっとも困難だったことは何か。

R: まず、これはさまざまな次元のストーリーであるということだ。組織の話をすれば、政治的なスリラーにもドラマにもなるし、(軍による)民間人殺害の話はそれだけで本を1冊書けるほどの内容がある。

 また、ウィキリークスはいかにしてメディアを変えているのかという議論もある。したがって、難点の一つは読者の心をつかんで離さないようなナラティブ(物語)を見つけることだった。

――あなたたちの本によると、ダニエル・ドムシャイト‐ベルクは、ウィキリークスでナンバーツーだった。しかし、ベルクはウィキリークスの実情を十分に知らないという人もいる。彼は蚊帳の外に置かれていたのか。