かつてテロは一般的な言葉ではなかった

 この5月3日、朝日新聞労働組合が主催する「言論の自由を考える」シンポジウム第24回に、パネラーの一人として出席した。

 24年前のこの日、つまり1987年の憲法記念日、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に男が侵入し、小尻知博記者(当時29歳)と犬飼兵衛記者(当時42歳)に向けて、いきなり散弾銃を発砲した。犬飼記者は右手の小指と薬指を失い、小尻記者は翌5月4日に死亡した。

 事件から3日後の5月6日、時事通信社と共同通信社に「赤報隊一同」を名乗る犯行声明が届き、この年の1月に起きた朝日新聞東京本社銃撃事件なども自分たちの犯行であることを明かしながら、「われわれは本気である。すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」などと宣言した。

 それから4ヵ月後の9月14日、朝日新聞名古屋本社の単身寮が銃撃され、「反日朝日は50年前にかえれ」との記述がある犯行声明文が送りつけられた。翌年の3月11日には、朝日新聞静岡支局の駐車場で時限発火装置付きのピース缶爆弾が発見され、同じころに中曽根康弘前首相(当時)の事務所と竹下登首相(当時)の実家にも、「8月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」などと書かれた脅迫状が送りつけられた。8月には江副浩正リクルート元会長宅に向けて散弾銃が発砲され、送り付けられた犯行声明には江副を狙った理由として、「赤い朝日に何度も広告をだして金をわたした」と記述されていた。90年5月には、名古屋の愛知韓国人会館が放火され、盧泰愚大統領(当時)の来日に反対するとして「くれば反日的な在日韓国人を さいごの一人まで処刑」するとの犯行声明が出されている。これらの声明にはすべて、「赤報隊」と記されていた。

 ……こうして資料を書き写しながら、つくづく胸が悪くなる。日本文化云々を口にするのなら、もう少し漢字を勉強しろと言いたくなる。世の中には多くの事件があるけれど、これほどに卑劣で幼稚で残虐な事件は、ちょっと他に思いつかない。

 テロとは暴力行為そのものだけでは断定できない。不安や恐怖を与えることで政治的な目的を達成しようとする意図が必要だ。その意味で一連の赤報隊の事件は、まさしくテロそのものだ。でも80年から90年にかけてのこの時期、テロはまだ一般的な言葉ではなかった。この言葉が普通に使われ始めたのは、日本では95年の地下鉄サリン事件以降だ(ただしオウムの場合には、その政治的目的は実のところ解明されていない)。