橘玲の世界投資見聞録 2017年6月22日

インド・アーグラのカフェで知った
極度に閉鎖的な共同体が生み出したあまりにも残酷な慣習
[橘玲の世界投資見聞録]

アシッド・アタックの加害者を”悪魔化”

 私と入れ替わりに入ってきたのはイギリス英語を話す若いカップルで、タンドリーチキンを注文した男性は、ここはベジタリアンの店だといわれたあと、戸惑った顔でメニューと店の様子を交互に見ていた。女性の方はなにもかも承知しているらしく、さっさと自分の注文を済ますとスマートフォンを眺めている。

 女性客が多いのは、顔に酸をかけられるというおぞましい犯罪がより身近に感じられるからだろう。それに対して若い男性の困惑は、それが別世界の出来事としか思えないからではないだろうか。

 アシッド・アタックの特徴は、誰もが被害者に同情や共感せざるを得ないのと対照的に、加害者を理解することができないことだ。若い女性の顔を破壊して人生を奪うような所業がいったい「人間」にできるものだろうか。こうして加害者は“悪魔化”されていくことになる。

 アシッド・アタックの多くは、求婚を断られた腹いせだと説明される。そんな些細なことで顔に酸を浴びせるのはたしかに“悪魔の所業”以外のなにものでもない。だが加害者の男を理解不能な“悪魔”にすることは、「遅れたインド」「遅れたヒンドゥー」への偏見にもつながっていく。そんな決めつけをする前に、事件の背景についてもうすこし考えてみよう。

 そもそもインドであろうがどこだろうが、娘(妹)に言い寄った男が逆恨みして顔に酸をかけるような暴力を不問に付す社会が存在するはずはない。司法や警察が機能しない地域では、女性の家族は加害者の男に自分の手で報復することを当然と考えるだろう。

 だとすればアシッド・アタックへの疑問は、男がなぜそのようなことをするのか、というよりも、なぜ加害者の男が、事件後も被害者の家族からの報復を免れ、ムラ社会のなかで堂々と暮らすことができるのか、ということにある。そしてその理由は、被害者の家族も加害者の行為を容認しているから、という以外にない。

 インドだけでなく、封建的なムラ社会はどこも、女性は父親の許可のない男性と交際することは許されない(日本も戦前まではそのような社会だった)。そこでは、結婚は男女の自由な意志で決めるものではなく、イエとイエとのつながりを生む「契約」だ。子どもが適齢期になると、どの男性がどの女性と結婚するかは、本人たちとは関係のないところで、双方のイエによって決められる。それを受けて男性は女性に求婚し、女性は無条件にそれを受け入れなければならないとされている。

 この求婚を断ることは、相手の男性だけでなく、彼の属するイエの面子をつぶすことにもなる。

 いったん面子をつぶされると、なんらかの方法でそれを回復しなければ、ムラ社会のなかで生きていくことはできない。男性は、一生笑いものにされるくらいなら、どんなことでもしようとするだろう。このとき面子を回復する“正当な”報復行為が、アシッド・アタックなのだ。

 娘(妹)が顔に酸をかけられても家族が黙っているのは、それが家族の一員に対する個人的な暴力ではなく、ムラの掟を破った当然の報いだと思っているからだろう。それに反抗すれば、こんどは自分たちが村八分にされ、兄や弟が結婚できなくなってしまう。インドのムラ社会では、男が女よりはるかに価値が高いとされているので、兄弟のために姉妹が犠牲になるのは仕方のないことなのだ。

 アシッド・アタックがインドのムラ(地域)社会で容認されていたことは、近年まで、加害者が逮捕されても証拠不十分などでほとんど有罪にならないか、傷害などの微罪で済まされてきたことからもわかる。法律の建前とは別に、責任を負うべきは酸をかけた男ではなく、イエとイエとの契約を拒否した女の方だというのが暗黙の了解になっていたのだ。それでもインドでは、近年は性暴力への批判が高まり、硫酸や塩酸などを薬局の店頭で販売することが禁じられたほか、2013年の法改正でようやく、アシッド・アタックの加害者は最長10年の懲役刑に処せられることになったという。

美しく着飾ったアシッド・アタックの被害者たち。NGOが企画したファッションショーの写真 (Photo:©Alt Invest Com) 

 

親が娘を殺す「名誉の殺人」

 アシッド・アタックが「ヒンドゥーの悪習」ではないことは、イスラーム諸国(とりわけパキスタン)で大きな問題となっている「名誉の殺人」が「イスラームの悪習」でないのと同じだ。

 「名誉の殺人」は、親が認めていない男と性交渉をもった娘を家族が自らの手で殺すことで、欧米や日本など先進諸国で暮らすひとたちには想像すらできない行為だが、これも、結婚がイエとイエとの契約だというムラ社会のルールから理解可能になる。

 「名誉の殺人」が問題にするのは結婚前の女性が性交渉をもつこと(処女性の喪失)ではなく、イエ同士が決めた相手以外の男性と恋愛することだ。仮に婚前交渉が発覚しても、双方のイエが結婚に合意したのなら、未来の花嫁を殺すようなことをするはずはない。

 だが、イエとイエとの約束事を娘が裏切って別の男と性交渉を持った場合(すなわち“傷もの”になると)、求婚を断った以上に相手の面子をつぶすことになる。その場合は、失われた面子を回復するには顔に酸をかけるだけではすまず、死をもって償わなければならない。

 だがいくらムラの掟を破ったからとはいえ、他人が自分の娘(妹)を手にかければ、深い恨みが残るだろう。その結果2つのイエが争えばムラの平和は乱されてしまう。そんな事態を避けようとすれば、掟を破った娘は、いかなる遺恨もなしに死の制裁を受けなくてはならない。

 こうした条件を満たす方法は、おそらくひとつしかない。それは父親や兄が自らの手で娘(妹)を殺すことだ。これなら誰を恨むこともできないから、ムラの平和を侵さずに秩序を回復できるのだ。

 娘が、(宗教や人種などの異なる)“許されない相手”と婚前交渉した場合は、自分たちのイエの名誉が汚されたことになる。「名誉の殺人」の特徴は、家族が“裏切り者”の娘を執拗に追いかけることだ。これは彼らが偏執狂だからではなく、名誉を回復しないとムラ社会から排除され、生きていけなくなるからだろう。

 「名誉の殺人」の加害者である父親や兄弟(伯父や従兄弟が加わることもある)は、アシッド・アタックの加害者よりもさらに異常犯罪者の扱いを受けるが、じつは彼らはごくふつうのひとたちで、たまたま娘が許されぬ恋に落ちたことで、閉鎖的な共同体のとてつもない同調圧力によって、“裏切り者”を自ら「処刑」する以外の方途を失ってしまったのだ。逮捕されたときに彼らが堂々としているのは、自分が犠牲になって家族(イエ)を守ったと思っているからだろう。

 アシッド・アタックや名誉の殺人は、加害者の処罰を強化するだけでは(もちろんそれは重要だが)解決できない。この残酷な慣習を生み出しているのが極度に閉鎖的な共同体である以上、それを世俗化し、解体する以外に悲劇を止めることはできないだろう。

 私たちは漠然と、ムラや共同体を牧歌的な“よきもの”と思っている。それはある面では間違ってはいないが、しかしもうひとつのグロテスクな相貌も忘れてはいけない。アーグラのSheroes Hangoutで、そんなことを考えさせられた。

カフェの店内。手前にいるのはスタッフ     (Photo:©Alt Invest Com) 


 

 

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橘 玲(たちばな あきら)

 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)など。新刊『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』が、発売即重版と大好評。

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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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