私の博士論文をご指導いただいたO先生が大阪の病院へ戻ってこられたので、先日、第二外科、酵素化学研究室の同窓会が開かれた。

「私は熊本に出て21年が経ちます。そのあと数年で酵素化学研究室は消滅しましたが、今回、柴田先生が幹事役をしてくださり、このような会が開かれました」と話が続く。同じ釜の飯を食べた仲間が20年の歳月を超えて集まったのだ。東京から参加いただいた先輩も数名おられた。その一人、ヒトゲノム解析、ガンワクチン、ガン抑制遺伝子の世界的権威であるN先生も同じテーブルで、私は杯を交わしながら当時のことを思い出していた。

 外科の医局員が一人前の外科医となり、その先のゴールを夢見るとき、四つのステップをクリアーしなければならなかった。まず一つ目が初期臨床研修、二つ目が博士号の取得、三つ目が後期研修で専門医になる。そして最後のゴールとも言える4つ目は、大学病院や基幹病院、診療所などといった組織でマネジメントすることであった。ところが、一流大学に課せられた博士号は、ドイツ語で「ノイエス」すなわち「新しいこと」を発見し、有名科学雑誌へ掲載されるレベルを要求された。私立の医科大学卒業の決して出来が良いとは言えない私にとっては外国語の論文を読むのが精一杯で、医学領域の最先端の新しい発見と外国語論文を書くことなど、大学入試や医師国家試験以上に困難なものであった。

 救命救急センターの研修のあとS市民病院の外科研修の2年目が終わろうとしていた頃、博士号を取得して同じ外科に赴任されたI先生に私の不安を打ち明けた。

「今年、大学医局の研究室へ配属される予定になっているのですが、博士号って大変なのでしょうね。」と私。

「外科医にとっての博士号は“足の裏の米粒”のようなもの。米粒をとっても何も変わらないけど取っておかないと気にはなる。でも何年がんばっても取れない人もいるし、誰もが苦労しているよ」とI先生。

「どこの研究室に配属されるかで、大きく変わるのですよね」と私。

「ボクは酵素化学研だったけど、そりゃー天と地の差があるよ」とI先生。

 ときを同じくして、当時の外科教授が退官され、まさに教授選考会が始まろうとしていた。

 私は研究室の配属が一生にかかわる大きな選択と考え、熟考の末、ある結論に至っていた。当時最も研究成果を出していたO先生は若くして教授候補とされていた。O先生が新任教授となれば、医局員の精鋭がその研究室に殺到し、私学出身の私はたとえ希望しても配属されないであろうと考えていた。